夢の向こうの記憶
誰もが必死で、誰もが自分の目の前の可能性と願いしか見えていなかった。すべての悲劇の引き金はそこにこそあったのだろうと、は切なく溜め息を落とす。
人ならぬ力を与えられ、思い至るはずのなかった選択を抱えてしまった望美。
神ならぬ心を育み、芽吹かせるはずのなかった愛し方を知ってしまった白龍。
その在り方の特異さゆえに、巡る選択の中に遍く存在することのなかった。
そして、そんな自分達にかかわりを持ったすべての人々の心に傷を刻んだ。自分達の胸を切り刻むのと同じか、あるいは想像しえないほどに深く。
「記憶が残されるのは、天罰だね」
自嘲気味に嗤って望美はうっそりと呟いた。
「みんなをこうして巻き込むことも含めて、きっと、私への天罰なんだ」
立てた膝を抱え込んでいた腕の先で、ゆるく組まれていた指が白く血の気を失っている。
「どんなに謝っても足りないって、わかっているけど」
本当に、本当にごめんなさい。
ひたすらの慈愛と心根のまっすぐさゆえに手繰り寄せてしまった悲劇は、彼女だけのせいではない。ありとあらゆる要因が重なり合って、複雑に絡まり合って、そして織り上げられてしまったカタストロフィ。
正確に言えば彼女は当事者でなどない。それでもこうして我がことのように胸を痛め、悲嘆に暮れ、果てない自責に沈むのもまた、すべてのきっかけとなったその心根ゆえだというのに。
なんとか納まっていたらしい涙が再び滲んだ双眸を隠すように俯いてしまった望美によって齎されたどうしようもない沈黙を、切り裂いたのは飄々とした、けれど静穏でどこか荘厳な声。
「だが、救われた」
意外な人物の意外な発言に少なからず息を呑む音が重なり、巡る視線が一斉に突き刺さる。もっとも、当人に気にしたそぶりは微塵もない。
「すべてを諦め、投げ捨て、常闇の中を終焉に向かって歩むだけだと思っていたのに」
ああ、それは知るはずのない記憶。見知らぬ絶望。与り知らぬ希求。受け止めるのはおろか、間近に傍観することさえあまりに辛くて思いが崩壊してしまったというのに、あなたはそれを受け入れて、さらには昇華させるほどに強いとでもいうの。
己の感慨と遠い情動が入り乱れる感覚に思わず視界を閉ざし、は間近で静かに凪いでいる、水底のようなぬくもりと慈愛の気配にすべての神経を委ねる。
「光を夢想し、救われることを望んだ。今生では無理でもと、来世への巡りを祈った」
声を聞きながら、まなじりがしっとりと湿り気を帯びるのを感じていた。
「それは、“俺”が“アレ”に出逢ったからだ」
どこまでも愛しげに、誇らしげに嘯きながら、背に当てられていた手がそっと腰を抱きよせてくれる。その仕草にさらに涙腺が緩むのを自覚しながら、必死になって涙を押しとどめる。
ここで泣いてしまっては台無しだ。遮りたくなどない。彼が汲み上げてくれた遠くて優しくて切ない記憶を、どうか、最後まで余すことなく聞かせてほしい。
「誰の何が罪なのか。許されるか否か。何が正解かなど、知らないが」
今回の一件にまつわる顛末は、決して心地良くなどなかっただろう。あれほど、ずっと不愉快そうにしていたではないか。
遠回しな言葉遣いを好むため気づきにくいが、知盛は物事を割りと白黒はっきりつけたがる性格をしている。面倒事は嫌いだし、厄介事に巻き込まれるくらいならと器用にあらゆる可能性を排除していることも知っている。この一連のドタバタ劇は、きっと彼が最も厭うこと。
「こうして丸く収まったんだ。それで、終わりだろう?」
なのに、なのに。
あなたは“彼”の絶望を昇華し、こうして自分達の苦悶をも薙ぎ払う。絶望の奥底に隠されてしまっていた慈愛を拾い上げて、やわらに、あたたかく、差し出してわかちあってくれる。
ついに耐え切れなくなってまなじりから零れ落ちた涙は、ひたすらに熱かった。ひくりと鳴った喉がなんだか間抜けで、泣きながら笑ってしまう。
「事実は事実よ。それはもう、覆せないわ」
たとえ神であっても塗り潰せない過去。たとえ望美が時空を超えようとも、決して断ち切れない過去。それが、自分達に降り積もったこの見知らぬ記憶の由縁。
紡がれた時間は、世界に蓄積される。その理ゆえに、こうして数多の記憶が降りかかったのだろう。知盛に集まっていた視線が自分へと滑るのをうっすら持ち上げた視界で認識して、は浮かぶままに口の端に微笑を刷く。
「だから、終わったという事実も、覆せない」
ねえ、そういうことでしょう。声に出さずちらと視線を横目に持ち上げれば、嫣然と刻まれた美しい微笑が確かに肯定を伝えてくれる。大丈夫。自分はこの人の隣にいられる。そんなあまやかな確信にほっと息を吐き出して、戸惑いと後悔に揺れる神の双眸へとは焦点を絞る。
「あなたがしたことを正しいとは思わないわ。でも、間違っているとも責められない。だから、謝らないで」
Fin.
back --- next