朔夜のうさぎは夢を見る

夢の向こうの記憶

 けだるい感覚はまだ抜けきらなかったが、動けないほどの虚脱感は解消された。知盛の肩に預けて斜めに傾けていた体の軸を、ゆっくりと起こし直す。
「あなたが神様そのものではないのなら、失敗に学んで、やり直せるということでしょう?」
 そして、償うことで先に進めるということだ。人であることの矮小さは、人であるがゆえのしたたかさと背中合わせ。神であることの絶対性は、神であるがゆえの危うさと背中合わせ。どちらが正しいとか、いいとか、そういうことではない。ただ、その事実が厳然と存在するのが世界という存在なのだろう。
 彼は己が誤ったと言っていた。どうするのが正しかったかということにまで思い至っていた。ならば、それでいい。
「同じ失敗を繰り返さなければいいのよ。そのための終焉よ」
 いっそあっけらかんと笑って、は縋るように見つめてくる白龍に対峙する。
「“わたし達”は納得して、終焉を引き受けたわ」
 大丈夫、もう恐れることはない。惑う必要はなくなった。
 自分は彼の許に。“彼女”は“彼”の許に。曖昧に溶けあっていた魂は正しく分かたれた。すべては在るべき場所へ、在るべきモノと、あるべきように。
 だからは直視できる。“彼女”は自分であり、彼は“彼”であったという世界の矛盾を。
 小さく微笑んで、揺れる白龍の瞳には頷く。世界の理に歯向かう矛盾を昇華させたほどの恋心を繋いだ“自分達”を、ほんの少しだけ羨みながら。
「もう間違えないで。それでいいのよ」
 だって、やっとお互いに辿り着いて、今度こそ夢の底へと沈んだ。それもまた、揺るぎ無い事実なのだと知っているから。


 息を詰めての言葉に聞き入っていた望美が、わっと声を上げて泣き崩れた。ソファの上で背を丸め、両手で顔を覆いながら幼子のように泣きじゃくる。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 ひたむきに繰り返される謝罪に篭められているのは、助けてという悲鳴だろう。
 望美は一人で戦うことを選んだ。それが正しかったかどうかを判じる術などにはない。苦しかったろうと思うし、辛かったろうと思うし、それはずるいとも思う。ただ、彼女がもう繰り返さないだろうこと、これまでの時間をただ肯定するだけの暗愚さなど持ち合わせていないことに、安堵する。
 ようやくすべてが終わったのだ。そう実感して思わず深く息を吐き出せば、ぐいと決して弱くない力で肩を引かれる。
「どうしたの?」
「……なんとなく」
 再び元の体制で知盛の肩にもたれかかる形となったが振り仰いだ先には、何とも複雑な色に塗り込められた深紫の双眸。きっと過たず望美の言葉の裏に隠された必死の叫びを聞きとったのだろう面々が、大丈夫、自分達は恨んでなどいないとそれぞれに受け止めた“思い出”から労わりを差し伸べるのを聴覚の端に、微妙に歯切れの悪い知盛の言葉には首をかしげる。


 思うところは、まあ、ある。それは大なり小なり、誰もが同じだろう。だが、つまりはこれで終わりだ。紆余曲折も、割り切れない思いもあるが、これこそが最良にして最上の大団円。すべては正しく巡る。あまりにも大きく根の深かった傷を、確かに何よりも優しく慰撫した上で。
「もう、夢も見ないだろうな」
「そうね。ちゃんと、全部に決着がついたわけだし」
「お前もそうだが、俺も、という話だ」
 ほんの少し笑声を織り交ぜた声音に引っかかりを覚え、小さく眉間に皺を刻めば知盛は器用に片眉を持ち上げる。
「状況判断だけで、初対面の連中とここまで気軽に付き合えるのか、お前は」
「つまり?」
「夢を手掛かりにこの騒動に巻き込まれたのは、お前だけではないということだな」
 あっさりと明かされたカードは、性質の悪すぎるジョーカー。
「聞いてない!」
「聞かれていない」
 思わず反射的に不満を訴えれば、憎たらしく言葉尻を混ぜ返される。


 なんだなんだと振り返ってくる視線は感じていたが、このまま引き下がってなるかとの反駁心が先に立つ。
「ずるいわ。もしかして、最初から全部わかってたの?」
「わかるはずがあるか」
 身を起してじっとりと睨みあげても、知盛は常と変らない。さらりと受け流し、ひょいと肩をすくめて簡潔極まりないタネ明かしを続ける。
「“俺”も“お前”も楔だったんだろう? なら、お前と同じように俺が“俺”の感慨を夢を通じて見知ることも、予想がついたんじゃないのか?」
 喉の奥で笑いながら目を細める様子は猫のよう。これは機嫌の良い時の証拠だと、あらゆる記憶が太鼓判を大放出している。
「教えてくれても良かったじゃない」
「教えろと? “お前”にあれほど恋い焦がれている男のことを、俺の口から?」
 ゆるりと吊り上げられた口の端に、地雷を踏んだことを悟って身を強張らせるものの、もう遅い。何がいけなかったかはわからないが、しくじったことは確実。
「そういえば、俺の知らないところでの夢逢瀬があったようが」
 余さず明かせと迫る口調は、からかうようでいて逃げ道など許そうともしない絶対性に貫かれている。
 それは別に、二人きりで会っていたとか、後ろめたい事情など微塵もない。それでもなんとなく直視できなくて、助けを求めるつもりで視線を巡らせて知ったのは、むしろその行動が踏み入っていいものかと様子見をしていた聴衆を引き入れてしまったということ。
「いいぜ、夜は長い。まずは、その言い訳から聞こうか」
 無論、わかっているのだけど。こうしてほんの少し視点を変えることで、彼がこの切ない物語を、優しくわかちあって終えようとしている気遣いも。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。