夢の向こうの記憶
「……知らなかったの」
言い訳に過ぎないとも知っていた。けれど、伝えなくてはならないとも思った。もう、本当にもう隠すことは何もない。時空を超え、運命を上書きするという行為の何もかもをきっと共有したのだ。だから、自分の矮小さもまた、共有せねばなるまい。
「みんなのいる世界は、ひとつだと思ってた」
自分の見える限りのすべてを守ることしか、考えられなかった。だって、望美にはそれ以上の世界など見えなかった。当然だ。望美は“自分の生きる”道しか知ることはできない。“もしも”を選ぶために時空を超えることはできる。だが。
「繰り返してでも、辿り着ければいいと思っていたの。それが、まさか、こんなに大変なことだったなんて」
その“もしも”以外の道が同時に存在するなどと、どうして知ることができようか。
降り注ぐのは、身に覚えのある記憶と、見知らぬ思い出。“望美”の辿ったいつかの選択。
優しい神が望美の願いを叶えるその慈愛が、寄る辺によっては非情極まりない残酷さになるという痛烈な皮肉の具現。巻き込まれた魂を、その魂にかかわる全ての存在を、浅からぬ絶望と狂気の海へといざなった無知による代償。
世界があの可能性を切り捨てるためにこの時空を選んだのは必然であり、望美にとっては与り知らぬ偶然だ。だが、だからといってその偶然を引き寄せた魂の巡りを恨む思いはない。
あのメビウス・リングは断ち切られ、切り捨てられなくてはならなかった。そのために必要とされた要件がすべて揃っていたのが、自分の踏みしめるこの世界。この運命。
狂気と絶望の裏側にある希望と喜悦に満たされた世界に辿り着いた僥倖を恨んだりしたら、それこそ本当に、ありとあらゆる可能性への侮辱になると知っていた。
選ばれなかった道として切り捨てることさえできないのは、どこかの“望美”がいつまでも繰り返しているからだ。そして、それをリセットする代償として“望美”が積み上げたすべての感慨と共に生きることは、自分にしかできまい。
“彼女”の求め続けた以上の至上の終焉に出逢った己にしか、きっと耐えきれない。
だとすれば、世界はなんと優しいのか。
震える声が途切れ、そのまま再びしゃくりあげはじめてしまった望美にかけるべき言葉が見つからず、沈黙を守る一同の中で小さく息を吐いたのはヒノエだった。
呆れというわけでもなく、疲労というわけでもなく。けれど確かにありとあらゆる感慨に満たされて重く滑り落ちた吐息に、名前を紡ぐ声が絡む。
「白龍」
痛ましさに濡れて己の神子を見やっていた神の視線が持ち上げられたのを受け、ヒノエはいっそ冷厳と言葉を選んだ。
「お前の言っていた“魂の揺らぎ”は、このことだね?」
丸められていた望美の体が大袈裟なほどにびくりと跳ねたが、糾弾にも似た真理を暴く言葉は止まらない。
「いくつもの“オレ達”が、こうしてひとつの器に統合される。その兆しを、お前は“魂の揺らぎ”として読みとっていた」
違うかい。それは、問いかけの言葉でありながら、確認の音調である。
真摯さの奥に隠し切れていないのは剣呑さだ。苛立ちは、さて、何に向けられたものか。いずれにせよ、感情を御しきれない、あるいは御しきれずともその事実を隠し切れていないのは若さの証拠だ。
まだまだ青い。そう思ってうっすらと口の端を吊り上げた気配をまさか嗅ぎつけたわけではないだろうが、実にタイミングよくヒノエはを肩にもたれかからせていた知盛を振り返る。
「そして、アンタはそれを“刀”を通じて読み取っていたんだね?」
「まあ、及第点といったところか」
「……そうだね」
肩をすくめたかったが、それはやめておいた。帰宅して間もなく意識を取り戻しはしたものの、は本調子には程遠い。知盛としては強制的にでも休ませたかったのだが、席を外すタイミングを逸したというのがひとつ。このまま留まりたいと訴えられ、退けるには知盛もまた未練がありすぎたというのがもうひとつ。
別にはぐらかす意図を持っていたわけではないが、婉曲的になってしまった返答にぴりりと張り詰めたヒノエの気配を、白龍の悲しげな声がそっと押しとどめる。
「あの“知盛”は、あなたであり、あなたでない、世界を繋ぐ楔だったから」
溜め息に紛れさせるようなか細い声が、罪悪感に満ちた瞳と共に知盛に差し向けられる。
「あなたを害す意図はなかったようだけど、あなたがとても強い心の持ち主で、本当に良かった」
「どういうことです?」
いつものことながら真意の掴みにくい白龍の言葉に、弁慶がそっと問いを差しはさむ。
「“彼”は奈落の絶望を抱えていたから」
生半な覚悟では受け止めきれない、心が壊れてしまうほどの、哀絶を。
いつの間にか顔を上げて白龍を見つめている望美に視線を合わせて「神子は、知ったんだよね」と呟く。
Fin.
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