空の果てる場所
手すさびのように指を遊ばせていた鞘と水晶を見下ろし、そして影は黙ってやり取りを聞いていた重衡を一瞥する。
「責めているわけではない。ただ、アレは境が曖昧な存在ゆえに、呼んでしまうというのならその因果を摘みとろうと思ったのだよ」
「……どういうことだ?」
「戻りたいと、アレが強く求めれば戻ってしまう。そして、我らは同じ例外を二度にわたって見過ごすことはできない」
混乱からか、それともまったく別の衝動ゆえか。声が出せないらしい重衡に代わって将臣が問い返せば、影は淡々と答えを返す。
「一度は器を与えた。だが、それに際して我らはアレに魂の廻りにさえ関わる対価を求めた。ゆえ、これ以上は何をしてやることもできない」
「アンタが知盛のことを呼び返したってことか?」
「遠因は、確かに我らにある。だが、還ったのはアレの意思だよ。我らがなしたのは、剥き出しのままだった魂に、枷としての器を与えること」
はぐらかしているわけではないのだろうが、影の言葉は白龍のそれと同じようにひどく解りづらい。言葉の奥に意味を探して眉間にしわを刻みながら、将臣は必死に現状把握に努める。
どうやら神なる青年以外は誰も己の言葉を理解できていないということに気付いたのだろう。ふと息を吐き出し、影はそっと双眸を細めた。
「別に、無理に理解する必要はない。すべては終焉を迎えた。道は決したと、アレらが判じた。ゆえ、それまでだ。私の眼にはいささか不備が映るが、これ以上を強いるのも酷というもの」
アレらは己の役と責とをしかと果たした。だから、これ以上は求めまいよ。たとえこの先に、矛盾の崩壊が待っていようとも。穏やかな声で物騒な未来予想を宣告し、愛おしむように影は鞘を撫でる。
「案ずることはない。カンナギの命数はまだ尽きていないゆえ、あの子は生れし世界に還り、この世界にて得た傷を抱えながら時を送る。だが、魂に刻まれた絆は断ち切られない」
「……それは、廻りし先に、希望が繋がっているということですか?」
「さもなくば、我らはまこと、無慈悲の塊ということになってしまう」
くつくつと喉を鳴らし、影はやわらに微笑んだ。
遠まわしとはいえ、問いかけに確かな肯定を得たことを確信し、ようやく顔を上げた重衡はそのままずるりと崩れ落ちた。両手で頭を抱え、小刻みに肩を揺らしながら噎ぶように「ああ」と呟く。
「この世界の廻りには戻れない。戻してやるには、アレはあまりにも大きく理を逸脱しすぎた」
「でも、それは優しい逸脱」
「わかっている。ゆえにこそ、我らは世界に介入するという禁忌に一度だけ目を瞑ることにした」
白龍の反駁をあっさりと一蹴した影は、目を見開いて、言葉にはせずに、けれど信じられないと雄弁に語る将臣に微笑みかける。
「ここではない世界でも、お前はいつでもアレらのことを気に病んでいたけれど。我らとて、そうも無情な存在ではない」
それは、常闇に光の射すような錯覚。救いようのない絶望の海に、希望の広がっていく奇蹟。
「廻った先で、という制約はつくがね。救いは用立ててある」
神なるもの、運命なるものを呪い続けた時間をようやく覆せることを、将臣は実感する。あまりにも、あまりにも酷ではないかと嘆き続け、そう思うことさえも傲慢で、彼らの矜持を穢すような気がして葛藤し続けた胸の奥底の澱みとしこりが、ようやく静かに氷解する。
「そっとしておいてやれるというのなら、証は置いていこう。悲しむなと、惜しむなと言っているのではない。ただ、お前達が呼び覚ましてしまっては、すべてが台無しになるのだと伝えたかった」
紡がれる声が優しいことに、そして彼らはようやく気付く。淡々としていて、静謐で、静穏で。温度がないようにも思えた抑揚の薄い声は、ただどこまでも慈愛に満ちて穏やかに凪いでいるのだ。
「正しく眠らせておやり。正しく目覚め、正しく再び廻るために」
「どうして我らが、それを邪魔立てできましょう」
諭す言葉にゆるりとかぶりを振り、重衡は涙に濡れた声で微笑んだ。
「こうして知らせていただけたのなら、なおのこと。世界を違えてしまうのは悲しいことですが、やがてそれが兄上の幸いに繋がるというのなら、どうして妨げることができましょうか」
答えに満足がいったのか、影は薄く笑んで手にしていた鞘と水晶をそっと手放す。
「その言葉、ゆめ忘れるなよ」
この先、何があろうとも二度と呼んではやるな。あとは、お前達で何とかするといい。やわらかな風に包まれてゆっくりと降下する鞘と水晶が地につくのを待たずに、声だけを残してそして不可思議な影は夜闇の底へと消えていく。
Fin.