空の果てる場所
幾重もの運命を超えた先にて遭遇した、いつもと同じ、けれど何かが少しずつ違ってこれまでとはまったく違う帰結を迎えた時空の姿に、そして望美は戸惑っていた。今までに見知った中では最も理想的な終焉だったと言っていい。このままこの時空が未来へと邁進していく姿を見送ることは、きっと間違っていない。だが、それでいいのだろうか。
あの不可思議な蒼い人影を、白龍は神だと言っていた。白龍よりもずっと古い、この国の原初に近い頃から存在する存在なのだと。
それほどに由緒正しい存在が「もう手出しをするな」と言っていたのだから、このまま手を引くのが正しいのだろう。しかし諦めきれないのだ。いつだって、誰よりも死に近いくせに、誰よりもまざまざと生きるとは何かということをその身をもって示していた存在が、ようやく生き残れる時空だと思ったのに。
和議は成立した。ほんの少しの後味の悪さを残しながらも、最後の最後に神なる存在が直々に救いを示してくれたおかげで、夢見の悪さも軽減された。だが、それでただ良かったと胸を撫で下ろすには、望美の握るもう一つの可能性はあまりにも重かった。
和議が成立するという事実はわかったし、そのための要件も掴めた。ならば、このままもう一度時空を跳躍すれば、さらに理想的な時空へと辿りつけるのではなかろうかと。
儀式と宴席から一夜が明けてもなお、望美の心は定まらない。可能性に賭けてみたいという思いはある。だが同時に、次に失敗してしまったらどうしようという恐怖が付き纏うのだ。せっかく最大多数の最大幸福に限りなく近い時空に辿りつけたのに、この幸福を上書きしてさらに高みへと至れる自信があるとは、決して言えないのだ。
悶々と、深く深く思考の渦にはまり込むのはらしくない。らしくないとわかってはいるが、だって抜け出すことができない。
年明けを控えた、一年の中で最も透き通った空の気配を仰げば少しは気分が紛れるかと庭に出ても、何も変わらない。いつだって喪われた存在を取り戻したい一心で、無我夢中で時空を超えていた。あの我武者羅で恐れ知らずな自分に、どうしてか戻ることができずにいる。
ここで満足するべきだという声と、まだ高みを求めるべきだという声がせめぎあっている。そして、その葛藤こそが傲慢なのだという声がその双方を巻き込みながら、繰り返されている。
鼻で笑って馬鹿にされそうだと、自分の姿をぼんやりと顧みながら脳裏に思い描いたのは、八葉でも対の神子でも己を加護する神でもなく、結局いつでもわかり合うことのできなかった平家の将。この時空から永劫に失われてしまった、知らない側面ばかりを見せつけてくれた、一人の青年。
何が正しいのか、どうするのが最善なのか。そもそも、そんなことを考える己はヒトとして間違っていないのか。これまであまり深く考えることもなかったようなことまで様々に思い悩む背中に、そして慌ただしい足音が響く。
「姫君、悪いけどちょっと付き合ってもらうよ!」
「ヒノエくん?」
振り返るや否や、あっという間に傍にやってきて腕をとり、理由もそこそこに駆けだしたのは天の朱雀だった。
常の年齢不相応に余裕に満ち溢れた姿からは想像もつかない様子に、驚きながらも逆らうだけの隙がない。
「どうしたの?」
庭に降り立っていたのを幸いとあっという間に門まで連れていかれ、そのまま馬上に押し上げられる。次いでその背後に飛び乗ったヒノエは、馬腹を蹴ってから風に紛れないよう、けれど下手に周囲に聞かれないような絶妙な音量で望美の耳にとんでもない言葉を吹き込む。
「平家の連中の寝泊まりしている邸に、化け狐みたいのが出たらしい。清盛達が応戦してるからって、応援の要請が来たんだよ」
既に九郎や他の八葉は現場に向かっていると、わかっている限りの情報をかいつまんで伝えてくれるヒノエの言葉に必死に耳を傾けながら、望美はようやく昨晩、神泉苑に降り立った蒼き神に告げられた言葉の意味を知る。
矛盾の崩壊。この先何があろうとも。そう嘯いたあの神は、この未来を見透かしていたのだろうか。
いつだって、願うことはただひとつ。幸せになりたいし、幸せになってもらいたい。
知った顔が泣くのを見るよりは、笑うところを見ていたい。嬉しそうに目を細めて、頬を緩めて、口元を綻ばせているのを見ると、自分も嬉しくなるし、幸せになる。それはごく単純で、ごく当然の欲求だと、望美は思う。
そして辿りついたはずの平穏が今にも崩れようとしているのは、恐怖を抱え、己の在り方に惑った自分への天罰なのか。それとも、どう足掻いても平穏へは辿りつけないという世界の枠組みなのか。
「――どうすればいいのよ」
背後で手綱を握る青年には聞こえないように、口の中で紡いだのは世界への八つ当たり。崩壊する矛盾とは、何を示していたのだろう。馬の背中で揺られながら、けれど望美は自覚ある矛盾も葛藤も、すべてを飲み下してきつと前を見据える。
「私は、あなたほど強くはないけれど」
それでも、あなたの暴いた私は確かに私の真実だから、貫いてみせる。だって、このどうしようもない欲求は譲ることも諦めることもできないのだ。
呟いてきつく瞑った瞼の裏には、早春の蒼い空だけが浮かぶ。いつかどこかの時空であの人の溶けたのと、同じ蒼。筋違いであることはわかっている。けれど、どうか今だけは彼の勁さが欲しい。どうしようもない原初の願いを叶えるには、だって、矛盾も過ちも、すべてを肯定して道を貫く強さで、前に進むしかないのだから。
Fin.