導なき道
「そして、いかがする」
「在るべき場所に、在るべきように」
あくまで惜しむ院の声に、知盛はそっと纏う空気をやわらげた。
「軍場にて求められし我らの力は、和議の成った後には仇と、禍となりましょうゆえ」
いっそ慈愛すら滲んでいるのではないかと思えるほどに穏やかな声で、知盛は誰にも否定させない強い意思を紡ぐ。
「院の御世の平安が永に続かれますこと、お祈り申し上げております」
それが、彼の残した辞去の言葉だった。言い置き、そのまま院の言葉を待とうともせず、知盛は低く叩頭して吹く風に身を溶け込ませる。
「重盛が去り、知盛が去り――余は、平家の移ろいを余さず見届けることを定められているのやもしれんな」
痕跡など微塵も残さず、登場時と同じようにして不意に消え去った舞い手の座していた辺りを見やりながら、時代の変遷をその目ですべて俯瞰してきたのだろう翁は小さくも重い息をつく。
「来世では苦難なく、幸多きことを。そう、祈るぐらいは許されようか」
何をどこまで知っているのか。こぼされた呟きは、ひたすらの哀惜に濡れていた。
不可思議にして美しく、儚き余興の後に宴席が果て、どうしても彼らの行く末が気になって仕方なかった望美に声をかけてくれたのは、知盛によく似た青年だった。
「お時間がおありでしたら、参られますか?」
どこに、とも、何をしに、とも言わなかった。ただ、来るかと誘われ、それを断るつもりが微塵もなかった。それだけのこと。似て非なる、けれどどこまでも似通った静穏な空気を纏った青年は、そこでようやく名を重衡というのだと告げる。
「八葉の皆様方も、もしお望みならば」
「だが、その、俺達がうかがってもいいものなのか?」
「和議が成ったというのに、なぜあなた方の訪れを拒みましょう」
くつくつと笑いながら踵を返し、やがて重衡が導いたのは神泉苑。ようやく顔を出しはじめた月明かりに蒼白く濡れた苑内は、まるで水底のように静謐な空気に満ちている。そう、それは文字通り、別世界のように。
「え……?」
望美が驚愕の声を上げたのも無理からぬことだろう。蒼白い空間に、そして舞っているのは数え切れないほどの薄蒼い花弁。季節を無視して咲き乱れ、今宵が盛りと、今宵が最後と散り急ぐ桜花。何事かと目を見開く一同を導く重衡が辿り着いたのは、苑の奥にある泉のほとり。
月明かりの滲みはじめた、星明りに照らされた、桜の花弁に満たされた空間で。二人は、無言で舞っていた。時に背中を合わせ、時に向かい合い。無手のまま、無音のまま、二人は次々に舞を重ねていく。一差しでは終わらず、望美達の知っているものから知らないものまで、ただひたすらに、澱みなく、終わりを厭うように。
圧倒的な哀絶だった。彼らが袖を翻し、足を踏み出すたびに、そこにはかなしみが溢れ出すようだった。先の法住寺殿で見たのとは正反対の気配を醸し出す彼らの存在感に呑まれている周囲には気づいているだろうに、二人は一切構おうとしない。
舞って、舞って舞って。ようやく動きを止めた時、彼らが舞っていたのは柳花苑だった。望美の記憶に遠い夏の熊野を呼び起こすそれは、美しく艶やかで華やかな舞のはずなのに、なぜか鎮魂のそれとしか映らない。
そして、背中合わせに動きを止めた二人が、今度は違う動きをみせる。が腰紐に器用に佩いていた鞘から刀身を抜き出し、それにいかな業のなせることか、蒼焔を纏わせて舞いはじめたのだ。
動き自体は変わらない。相変わらず、彼らは背を合わせたり向き合ったりしながら、番うようにして舞を織り上げていく。ただ、知盛は変わらず無手のままであり、の翻す小太刀の刀身に灯された焔が、徐々にその輝きを強くしていくだけで。
その舞にも、望美は見覚えがあった。あれは今回の熊野で目にしたものだ。速玉大社の舞台で、美しい濃紫の扇を刀に見立てて彼女が舞っていた。壮麗で、勇壮で、猛々しささえ感じさせる剣舞。その身は一度死の関を越えているとはいえ、さすがに平家の誇る随一の僥将の舞い上げる剣舞は見事だった。の舞うのとはまた違う艶と凄絶さを醸し出す一差しに、誰もが思わず息を詰める。
だというのに、ただ見惚れていられればよかったのに。気づいてしまったのだ。
焔が強くなるほどに、その芯になっているはずの刃が薄らぎ、透けていった。それに伴って、傍らで舞っている男の姿もまた、徐々に透けていくのだ。
「……ッ!?」
気づいて息を呑んだのは、望美だけではなかった。それぞれが疑念やら驚愕やらを載せて振り仰ぐ先で、どうやらすべての事情を知っているらしい将臣と重衡は唇を噛んでいる。
「どうか、このまま」
黙って見守っていてはくれないかと。視点は兄達から外さないまま、泣きそうに優しい笑顔で首を振ったのは、重衡だった。
「送り火なのです」
静寂を纏って舞う彼らの作り上げた空間を乱すことを厭うように、潜められた声が吐息混じりに、必死に堪えた嗚咽混じりに絞り出される。
「兄上は、ずっと、この日を待っていらっしゃいました」
だから、邪魔立てはしてくれるなと。見送って欲しいと。悲壮な声が、じっと視線を注ぐことで今度こそ違えられない永の別れを惜しんでいる。
Fin.