朔夜のうさぎは夢を見る

導なき道

 唖然と目を見開く面々を申し訳なさそうに見まわして、話題に上っているその人ととても面差しの似た青年は続ける。
「どうぞ、お気に病まれませんよう。兄もこたびの和議の成立を慶んでおりました。なればこそ、今宵は一度限りの例外として、後ほど慶賀の舞を献上するとのこと」
「もしかして、それが院が散々あんたらに打診していた内容かい?」
「ええ」
 ようやく声を取り戻したらしいヒノエの問いに頷き、青年はそっと視線を伏せる。
「束の間の夢だとしても、散らぬ紅葉、欠けぬ月を見せてみよと」
「……なるほど」
 その揶揄には覚えがある。事ここに至ってようやくあの夏の速玉大社における遣り取りに秘められた真意を汲み、そしてあまりの皮肉にヒノエは大きく息を吐き出す。
「院は、その散らぬ紅葉がこの世の廻りから外れていることは?」
「私にはわかりかねますが、最終的には直接、文にて遣り取りをしておいでのご様子でしたので」
「………わかっていて呼んだってんなら、なんとも惨いことだね」
「最後の慈悲だろうと、兄はそう申されておりましたよ」
 声が苦み走るのを抑えきれなかったらしい若き別当に、青年は穏やかに微笑んだ。
「最後に夢を見せんとしてくださるのなら、夢見鳥の終焉にはいかにも優しきことと」


 源平両陣営間や武門の者と貴族達とのぎこちなさなど、どこ吹く風。自ら招きいれた白拍子の舞をのんびり堪能していたらしい院が、ふと手を打ち鳴らす。それを受けて舞台からは一人残さず人影が引き、今様を謡い上げていた声がやむ。不意の静寂にざわめく席の面々が何ごとかと囁き交わす向こうに、そして姿を現したのは一対の舞手。篝火に照らし出された舞台上に、風を纏い、何の前触れもなく。それは、陽炎の立つように。
 白銀色の髪は雪原を思わせ、翻る蘇芳の袖と鮮やかな対比をなす。彼が桜の襲にて平家の象徴である紅を引き連れるなら、対して彼女は源氏の象徴である白を引き連れる。夜闇を思わせる蒼黒の髪と対比をなすのは、翻る雪の下の襲。
 袖を、裾を、いたずらに舞わせていた風がすとんと落ちる。そこでようやく正常さを取り戻した聴覚に響くのは、鼓の刻むたおやかな拍子。まるで脈打つ鼓動のような拍に乗せ、紅白の袖が舞いはじめる。今度は、纏うそれぞれの確かな意思を載せて。


 二人が舞ったのは、少なくとも望美も朔も知らない舞だった。緩やかに、壮麗に、しめやかに。呼吸音さえ憚られて息を詰めて見入ったそれがめでたき舞であることは確か。切なげに膝の上の両手を握る青年からも、悼むように背筋をぴんと伸ばしている別当からも、いたく満悦そうな院の穏やかな双眼からも、それは確かに察せる。なのに、胸が苦しい。
 息苦しくて、肺腑が締め付けられるようで、こめかみが痛い。自分は泣きたいのかと、思考回路のどこかがひどく冷静に分析している。


 しかして終演の時がやってくる。下ろされた袖と鳴り止んだ楽の音とが、この美しい時間の終幕を伝えていた。だが、誰一人として身動きの取れるものはない。
 呆然と、あるいは陶然と。二人の舞い手の作り上げた空気に、完全に呑まれてしまっている。
 登場時とは対照的に、今度は正しく足を使って舞台を下りた二人は、黙って庭に伏している。沙汰を待って額づいている姿をゆったりと見やり、院がようやく満足げに息を吐き出す。
「――見事」
 それは、紛れもなく称賛の言葉。他には何の意図も孕まない、ただ純然と彼らの奉じた美しき舞を誉め称える声。
「まこと、見事であった。これほどの祝賀の舞を、余は知らぬ」
「もったいなくもありがたきお言葉」
 応じてさらりと返すのは知盛の朗と響く口上だった。常の気だるげな気配はどこへやら。あくまで優雅にさらに深く頭を沈め、声音だけでゆるりと笑ってみせる。
「共々、顔を上げよ」
 ふと思い立ったように与えられた許しに、二人はゆったりと頭を持ち上げる。
「今宵限りと、その思いに揺るぎはないのか?」
 純粋に惜しみ、慰留する気配に居並ぶ貴族達は色めき立つが、特に声は上がらない。そして、知盛はただ静かにいらえる。
「外道に堕ちたる身には過ぎるご温情。深く深く、感謝申し上げます」
 言って頭を下げ、そして姿勢を整え直してから続ける。
「なれど、変じてしまったこの身は、本来ならばこうして御前に伏すことをも許されぬ身空……。院の御世の末永からんことを祈念いたしますこの舞の奉納をもちまして、終の辞去とさせていただきたく存じます」
 声に迷いはなく、憂いもなかった。どこまでも静かに、まっすぐ現実を見据える声が、ただ世界の理のあり方とそこに身を溶かす彼の覚悟を語る。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。