朔夜のうさぎは夢を見る

導なき道

 生き人とは少し違う、けれど怨霊ではない気配。もどこか不思議な気配を纏っているが、知盛の異質さは群を抜いている。邸全体が不思議に静かな気配を湛えているのは、やはり彼が主として構成されているからなのか。なんとも不可思議なものだと思ってつい視線を向けていた先で、ふっと銀の睫が持ち上がる。
「ごめんなさい。お起こししてしまいましたか?」
 視線がかちあったことを感じてそっと眉根を寄せれば、はたりはたりと上下した睫の下から、決して寝起きのそれとは呼べないほどしっかりした光を弾く双眸が見返してくる。
「いや……どうせ、浅くまどろんでいるだけだ」
 言ってゆるりと指が持ち上げられ、その動きだけで座らないかと誘われる。
「ご心配なさらずとも、尼君に無礼を働きはせんさ」
 呼ばれ、しかしどうしたものかと身構えたのを目敏く見てとったのだろう。警戒を軽くいなし、淡く浮かべられた微笑は透明な気配。もたれかかっていた柱からわずかに背を浮かせて姿勢を正す姿に、特に断る理由もない朔はそのまま足を進めて階を上る。


「当家の居心地はいかがかな?」
 行軍に随従していれば、いやでも兵達の噂話が耳に入る。その中で、彼の名前は何度となく耳にしている。平家の誇る随一の勇将にして智将。二太刀を自在に操り、誰よりも多くの返り血に染まって恍惚と笑う鬼神。その勇猛さは、一介のもののふとして素直に畏敬に値すると同時に、戦場では適うならば出逢いたくないと思わされるものなのだと。
 そんな血生臭い話ばかりを聞いていたというのに、いざ出会ってみれば彼は別に、そんなに危険な気配を纏う存在ではなかった。けだるげな雰囲気に生きる者としての致命的な危うさを感じはしたが、ただそれだけ。所作は優雅に洗練されており、人質である朔への扱いも実に丁重。思い描いていた人物像との落差に対する違和感は、いまだに拭い去れない。
 身を起こし、それでもやはり柱に体重を預けてゆるりと流された視線はただ静か。
「とても良くしていただいております。ただ、その……」
 促されるようにして素直に感想を述べ、そこで一旦言いよどみ、けれど朔は意を決して言葉を続ける。
「私がいるために、殿がお忙しいご様子で」
 時間がある限り知盛の傍に控えているということは、きっと彼女は知盛付きの女房なのだろう。邸の主付きという高位の女房を自分のせいで振り回しているという感覚は、どうにも後ろめたくて仕方がない。致し方のないこととも思うが、そのせいでもし彼の生活に何か支障をきたしていては、と、ずっと思っていたのだ。
「無理にお気遣いいただかずとも、構わんさ」
 ゆえ、これをいい機会だと思って言い出してみたのに、当の知盛は瞳を細めてゆるりと笑うばかり。


 ほんのわずかに流してから再び庭へ視線を投げ、あっけらかんと知盛は嘯く。
「ただでさえ人手が足りぬ。俺には必要ないゆえ、家人は最低限にしか置いておらんからな」
 その言葉には偽りなど一片も含まれていないだろう。警護の人間さえろくに見かけないなど、敵軍にも名高き武将の邸としてはあるまじき姿であることぐらい、武家の娘である朔にはよくよくわかっている。
「なんぞ、人手がないがための不自由があれば、申しつけていただけるよう」
 嗤う声は、自嘲に濡れているわけでもなければかつて権勢を誇った一門の現状を嘲笑っているわけでもない。ただ、等しくすべてを嗤っている。そして、その上でなんのてらいもなく朔には人手を欲するのが当然だという声を投げかけるのだ。


 不思議だと、不可思議だと。朔の中に降り積もる疑念は深まるばかり。
 本来ならば誰よりも忙しくなくてはならないうちの一人だろうに、ただひたすらに、眠りの淵でまどろんでいる。それを誰も咎めず、誰も疑問に思っている様子がない。何もかも、誰もかれもが変革し、あるいは変革を余儀なくされている中、知盛だけが変わらない。時間を止めてしまったかのように、変わろうとしない。
「あなたは、和議に反対なのですか?」
 ふと口を衝いた疑問に、発するのをとどめようという意思など働かなかった。ぽろりと内心の思いがこぼれおちた言葉に朔が何がしかの思いを追いつかせるよりも先に、知盛が言葉を返す。
「いや? 俺とて、老いた母上や幼き帝が戦乱から解き放たれること、これでも深く感謝しているのだが?」
「ですが、あまり乗り気のようではないわ」
 穏やかとも違う、不穏というのでもない。ただ凪いだ声に、畳みかける声はつい追及の厳しさを孕む。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。