導なき道
院から出されたという条件はいたって単純なものであり、三種の神器の返還と言仁の廃位の要求。それを拒んだ場合の処置として、鎌倉にて幽閉されているという先の戦にて行方知れずになった重衡の処刑と平家追討の院宣による逆賊としての平家滅亡への道行き。
権勢を誇っていた記憶に縋りたい面々にとっては大いに不服の残る条件だろうが、とにもかくにも停戦に持ち込めるこの条件を、ひたすら一門を無事に生きながらえさせ、どこかに逃げられないかと画策していた将臣が見逃すはずもない。熊野という一種の隔絶された空間をいいことにしばらく院と熊野別当、そして源氏の重鎮と言葉を交わして折衝を積んだ上で屋島に戻る頃には、大まかな道筋は既に決していた。
無論、熊野水軍の協力を取り付けに行ったはずの総領がそんな突飛な話を持ち帰ったとあって、屋島は上へ下への大騒ぎになった。だが、そこに追い打ちをかけるようにして院宣を携えた使者がやってくればもう疑いようもなく、足掻きようもない。あざといとも賢いとも言えるだろう将臣の最終兵器は、言仁と時子を味方につけ、彼ら直々にこの和議を呑むよう周囲に言い含めさせるというとんでもない荒業であった。
事が決してしまえばあとは動くのみ。実質的に中心となって働いているのは、将臣と経正、そして知盛の異母弟らである。清盛の兄弟も存分に働いてくれてはいるのだが、話を持ってきたのが自分だからという理由で将臣が比較的ものを頼みやすい面々が中心となっている。
それは、将臣がこれを機に平家における中心層を一気に世代交代させようとしているとみえないこともない。我関せずとばかりにのんびりと時間を過ごしながらも状況は余さず把握しているのか、喉を鳴らして「喰えないことだ」と知盛はいかにも楽しげに笑っていた。
平家側からのこの和議に関しての人質は重衡。そして、同様に源氏側から人質として差し出されたのは頼朝の懐刀として名高い梶原家の一姫である、黒龍の神子であった。
当初は源氏側での発案者であるという理由で白龍の神子が候補として挙げられていたが、熊野滞在中での交渉の報告でその話を聞いた知盛が不機嫌もあらわに一蹴した結果、その話は流れていた。確かに、怨霊を使役する平家に対してその唯一無二の対抗手段である白龍の神子を差しだすのは誠意と取れないこともない。だが、仮にも平家嫡流の、官位を剥奪されたとはいえ本三位中将その人に対して、無位無官の、後ろ盾もなければ家の名もない小娘の一人を差しだすのが源氏の矜持なのか、と。
別に、知盛は和議を厭うて口出しやら手出しやらを控えているわけではないらしい。その他にも、義弟や将臣が意見を求めて邸をおとなえばきちんと話を聞いているし、真面目に助言らしき言葉を口にもしている。表立った仕事はしていないからと、代わりに人質としてやってきた朔を邸に受け入れて世話を請け負ってもいる。もっとも、実際に彼女の世話役はなのであり、改めて対面を果たした折にはの正体にまるで気づいていなかったらしい朔は非常に驚いていたし、それを見てにったり笑っていたあたり、素直な理由ばかりで彼女を受け入れたとも考えにくくはあるのだが。
それでも、ばたばたと誰もが忙しく奔走する中、政務に一切携わらない知盛の邸は非常にのんびりしている。現実から切り離されたようにゆるりと時間の流れる邸の中で、そして主たる知盛はひたすらに眠り続けている。時間が許す限り、ではない。ひたすらに、ありとあらゆる時間を眠りに費やして、彼は日々を送っている。
政務に携わらない以上、別に見られて困るものもなければ邸内で聞かれて困るような話もしない。好きなように過ごしていてくれれば構わないと、その言葉を裏付けるように、朔は身の回りの世話をに焼かれる以外、監視も付けられずにずっと放り出されている。一度、試しに写経をしたいから経文が欲しいと申し出たところ、さすがはこの世の春を謳歌した一門と言うべきか、実に豪奢な巻物を与えられて眩暈を覚えたほどだ。
不思議なものだと、そう思う。邸全体がひどく静かで、鎮めの力を司る黒龍の加護を得ている身としてはなんとも馴染み深さを感じるのだ。音ではなく、気配がとても静かに凪いでいる。まるで、水底に沈んでいるかのように。
絢爛豪華とはとても言えないが、雰囲気の良い、清楚で穏やかな庭に秋の花を求めて降り立っていた朔は、そして今日も今日とて簀子でだらりと四肢を投げ出して眠っている邸の主を見かける。少し前までがついていたのか、それとも通りがかったのか。女物の袿が上掛けとして供されている。朽葉色の狩衣に重ねられた青の袿は、はて、あえて青紅葉の襲を思わせるように彼女が意図してかけたのか、それともただの偶然か。
平家の中でも上から数えた方が断然早い地位につけているだろうに、なぜか知盛の邸にはほとんど家人がいない。何かと人手が入用な周囲の邸に貸し出しているのか、何か別の理由があるのか。とにもかくにも、朔の身の回りの世話をするためなのか、は基本的に忙しそうにぱたぱたと動き回っている。結果、朔はそこかしこで独り寝を貪る男の姿をよく目にすることとなっている。
Fin.