紫雲のたなびく
舞う分には構わないし、神気を載せる分にも別に問題はない。ただ、その剣舞は剣術の鍛練の一環として習い覚えたものだ。神子にも八葉にも、見せればの隠していることが露見してしまうだろう。
だが、の懸念と憂鬱になど時間は構ってくれない。神子の舞は終幕を迎え、結局、苦しげにしている怨霊の正体を完全に暴くには足りなかったのだ。
「見事、見事。さすがじゃな、白龍の神子」
もっとも、院は神子の舞を見られてひどく満悦の様子である。にこにこと上機嫌であるところに、すっとヒノエが口をはさむ。
「院、差し出がましいようですが、そちらの女房殿はどうやらご気色が優れないご様子。どうでしょう、しばしお休みいただく間、もう一差し」
「うむ、そうじゃな」
「いえ、法皇様。そのようにお気遣いいただかなくとも……」
「ああ、無理をなさらないでください。顔色が悪いですよ」
慎ましやかに遠慮の口上を述べるところを、すかさず弁慶が遮る。
「僕は薬師なんです。少々、診させていただきましょう」
「おお、それがいい。ほれ、遠慮することはないぞ。余は構わんから、お主はしばしそこな薬師に診てもらうといい」
許しを得て院の近くまで寄った弁慶が女房を連れて少し離れた位置まで下がり、隠し切れていない恨めしげな気配に八葉が目を交わしあって作戦の順調ぶりを喜ぶ。だが、これだけでは終わらない。
さて次は誰が舞おうかという話をヒノエとしていたらしい院だったが、ふとめぐらされた視線が大社の巫女やら集まっていた白拍子やらを通過しての上で止まる。
「まぼろしなれど、白昼夢に舞うは適おうよな?」
名を名乗る代わりに切り返した和歌をここでも持ち出して薄く笑う至高の存在に、は深く頭を下げてから声を紡ぐ。
「お許しを頂けるなら、かぎろいを立たせることなればあたいましょう」
「では、余はその陽炎にまどろむとするか」
事前の根回しか、それとも院自身がのことを気に入ったのか。あるいは、将臣と共にいるところから何かしらを勘付かれているのかもしれない。かの存在こそは政権の頂に君臨する大狸。化かし合いはお手の物。掌握する情報の量と質とは、おそらくの想像など及びもつかないものだろう。
直々の許しにもう一度深く頭を下げ、は周囲に軽く会釈を残して舞台に向かう。心得たもので、控えていた神職達は黙って見送ってくれる。
「楽はいかがいたします?」
「剣舞をお願いします」
舞台の脇に揃っている楽師達に短く要求を告げ、笠を脱ぎついでに一番上に纏っていた袿も脱ぎ去る。指貫の動きを邪魔しないように姿を整え、引き抜くのは腰元の袋に入れておいた舞扇。
袿と笠を袖に置いて舞台に上がり、はあえて院に見せつけるようにして手にした扇を開いて姿勢を整える。
広げた扇は濃紫に金粉の散る豪奢なそれ。の手には大きすぎる、誰がどう見ても男物の一本。目を見開く気配の中でも、事情を悟っているだろうものは三つ。将臣にとって、それは龍神温泉を発つに際して荷物の中からあえてに預けられたことで記憶に新しいものだろう。お前の扱いは乱暴だから嫌だと言うほどには、知盛はこの扇を気に入って愛用していた。そして、が見知ることのできた数少ない宴席において、主がこれを手に舞う姿を敦盛は間近く見ていたことだろう。
最後に一対の視線が笑う。笑ってそのままゆるりと将臣を撫で、そしてに戻される。無論、彼こそがこの舞扇のゆえんに最も覚えがあるはずだ。何せ、これはかつて知盛が後白河院その人から直々に下賜されたといういわくつきの品。さすがに雅事の好きな院は目が高いと、素直に称賛の言葉を紡いでいたのをは覚えている。
どうせなら見せつけてやれと、そう言ったのは獣だ。事の顛末と自分に課せられた役目を語った際、眇められた双眸に映っていたのは物騒な光だった。正しく目的を果たすために舞うならば、その動きだけで何かと不信を撒き散らしてしまうだろう。だったら、逆手にとって手にできる限りの益をもぎ取るべきだと。
この場において、正しくこの扇が何を意味するかを知っているのはと後白河院、そして獣のみ。そして、が成そうとしていることを正しく理解できるのは将臣と獣のみ。ちらと送った目配せに気付いたらしい将臣が表情を引き締めるのを視界の隅に、は流れ始めた楽の音に合わせてゆるりと袖をもたげる。
楽に合わせ、けれどその楽に乗せてこれまで舞われただろう数多の剣舞とは確実に一線を画するだろう一差しをは舞う。白拍子よりも、巫女よりも、ずっと勇壮で武骨な、あるいは粗野とも称されるかもしれない剣舞に、徹底的に神気を篭めて。
扇を翻し、袖で宙を薙ぎ、視線は鋭く周囲を突き刺して。場を清めるよりはむしろあからさまなほどに擬態を続ける怨霊への敵意と攻撃の意思を載せた舞は、視る者には視えるだろう神気の嵐を呼び起こす。ヒノエや白龍などの気の流れに敏い面々が驚愕だの関心だのに表情を塗り潰されていることになど構うつもりはない。
この怨霊もまた平家による悪意だと思われるわけにはいかないのだ。神域を穢すほど、平家は落ちぶれてなどいない。ただ、少なくともその遠因になっていることは確かだろうから、果たせる責任ならば果たす用意があるだけだ。
Fin.