朔夜のうさぎは夢を見る

紫雲のたなびく

 勝浦においても、宿の手配をしてくれたのはヒノエだった。雰囲気も良く品も良く、まさに文句のつけようなどどこにもない。宿の人間がかしずく様子からしても、きっと彼は熊野において非常に重要な地位を担っている存在なのだろう。
 源平の重鎮に、熊野に。龍神はなんとも絢爛豪華な顔触れを己の神子の守り役に揃えたらしい。その恩恵に与る身としてはあまり偉そうなことなど言えないのはわかっているが、どうしても複雑な思いは殺しきれない。
 宿に腰を落ち着けてすぐに、八葉達はすぐさま情報収集にと町へ繰り出していた。そうなってしまえばやることのないとしては、宿を紹介してもらったことへのせめてもの礼として、生活がつつがなく進むよう手を貸すのみである。
「では、お願いできますか?」
「ええ。お手伝いできることは、このぐらいですもの」
「本当に助かるわ」
 露店が軒を連ねる通りまで出て、さてここからは別れようと言葉を交わす相手は朔。望美が元気に情報収集に出かけたのを見送った対の神子たる彼女は、生活必需品の補充を優先したかったらしい。買うべき物を確認し、さてどうやって店を回ろうかと悩んでいる場面に遭遇して、こうして分担を申し出た次第だ。
「あなたも、殿のことをしっかり守ってさしあげてね」
 別れ際、にっこり笑う墨染の視線が落ちる先には銀色の獣。答えてぱたりと尾を振る姿は意外にも愛らしく、は朔と目を見合わせて仄かに笑い合った。


 交易が盛んな港町に特有の空気は、どこか下町のような風情がある。京の東西の市もなかなかに盛んなものだと感心したが、ここはここで全く違う。ついでにぶらぶら観光でもしてこようかと考えながら、目的の油が売っている店を探して歩く。
『ものすごい活気ですね。やはり、交易拠点たる地は内地とは違うのでしょうか』
『これは、熊野に特有のものだろう……。同じ交易をしているとはいえ、平泉はまた違う』
『平泉?』
『奥州……鎌倉よりも、なお北の地だ』
 この世界での生活にはすっかり馴染んだだったが、言葉にはまだ足りない部分が残っている。示された地名がすぐにはわからずそのまま復唱すれば、呆れるでもなく、簡潔にして要点を押さえた説明が追加される。
『もしや、中尊寺金色堂の?』
『なんだ、知っているではないか』
『見たことはありませんが』
 源平合戦の主要舞台のひとつだったと、思い出したのは答えてからだ。たとえ歴史がどう転がろうとも、自分がそこに辿りつくことはないだろう。平家の行く末を見届け、そしてこの身は世界から切り離される。それが、共に在りたいと言い張ったに主の出した、唯一絶対の条件だった。


 油屋はほどなく見つかり、何事もなく買い物を終えただったが、思いがけない情報をも手にすることとなった。いわく、この勝浦の盛況の凄まじさは、後白河院の御幸によって齎されたものであると。
『まあ、本宮に向かえないとあらば、勝浦に回るのも妥当というものか』
『大きな町だからですか?』
『それもあろうが。……速玉大社も、那智大社も近い。いささか順序が狂うが、参詣の目的を果たすに、適した場所ゆえな』
 面倒だの何だのと言いつつ、やはりさすがに宮中で培った経験と知識は重い。しばらくは勝浦に滞在なさることだろう、と。特に感慨もなく嘯き、獣はおもむろに『足を速めろ』と言いつけた。
『一雨来るぞ……油を無駄にしたくなくば、急げ』
 ひくひくと鼻だの耳だのをうごめかせる姿があまりにも自然で、そのことがなんだかおかしくてはくすくすと喉を鳴らしてしまう。無論、その忠告を疑う理由などない。彼はその在り方ゆえに、よりもよほどヒトならぬ存在に近く、彼らの声を数多聞きながら日々を過ごしているのだ。


 予告通り、急ぎ足で宿に戻ってすぐに雨が降り出した。濡れずにすんだことを喜びながら、その外観ゆえに宿に上がるわけにいかない獣の体を、借りた部屋の前の軒下で冷えぬようにと拭いてやる。
「優しいね、姫君。できれば、そのぬくもりをオレにも分けて欲しいんだけど?」
「ヒノエ殿」
 軽やかな声が背からかかり、は獣の毛並みを梳く手を止めて背後を振り仰ぐ。
「お戻りなさいませ」
「ああ、ありがとう。もっとも、そいつはオレのことを歓迎してはいないみたいだけど」
「そのようなことはないと思うのですけれども」
 姿勢を正して座りなおせば、その隣に腰を下ろしてヒノエがゆるりと指を伸ばす。わずかに身じろいだものの、結局獣はその場にとどまることを選んだ。どうやら、いたずらに雨に打たれるよりはヒノエに触れられる方がましだと判断したらしい。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。