朔夜のうさぎは夢を見る

紫雲のたなびく

 熊野川からの撤退を言い出したのが誰だったかはわからない。ただ、それこそが最も無難な道であり、ここで最良の選択であることにとて異存はない。
「どうせ退くんなら勝浦まで行こうぜ」
「ああ、そうですね。あそこは大きな町ですし、情報が得やすいでしょう」
 大きな傷や致命傷を負わなかったとはいえ、無傷というわけにもいかない。助けに入った敦盛ともども、濡れた体を乾かしていた望美をよそに、言葉を交わして今後の計画を練るのは熊野にゆかりがあるという天地の朱雀。
 結局、川に巣食っている怨霊がいったい何であるかはわからなかったが、敦盛の攻撃によって痛手を負ったのか、下流方面へと逃げられてしまったことだけは確実。このまま放置しておくわけにもいかず、なんとか探し出して封印をせねばなるまいという点までは構わない。ただ、としてはそこに自分を加えられるというのがあまり嬉しくない。
殿には慣れない強行軍で大変申し訳ないのですが、僕らとしては、将臣くんにもぜひとも怨霊の封印にご一緒していただきたいんです」
「ええ、わかっております。八葉は神子様をお守りする存在ですもの」
 心底申し訳なさそうな弁慶の苦笑に微笑み返し、はそつなく小首を傾げてみせる。
「わたしはどこぞに宿を求め、そちらで将臣殿のお帰りをお待ちしておりますので、どうぞ心おきなく怨霊退治に励んでいただけますよう」
「ああ、いえ。宿の手配ならばどうせですし、こちらで請け負いましょう。足止めをしてしまっているお詫び、とでも思ってください」
 だが、遠まわしに自分は別行動をしようと伝えるものの、弁慶はそれを拒絶する。それほどまでに警戒されているのかと、歯噛みする思いはけれど決して見せるわけにもいかない。


 山道をゆっくりと下りながら、仕方がないのでになせることといえば声に出さずに獣と今後の方針を話し合うことぐらいなものである。
『随分と、疑われたものだな?』
 くつくつと笑う声は、明らかにこの状況を楽しんでいる。何事も傍観者に徹してはその全容を楽しむという悪癖があるのはわかっていたが、観察される側に回ることは面白いことでもない。憮然と溜め息をついて、仕方がないからせめてもの意趣返しを画策する。
『神子様は、事の次第をすべておわかりでいらっしゃるご様子ですね』
 どうせあなたも知っているのでしょう、と。声音に滲ませた詰る思いは、ひょうひょうとした口調によってはぐらかされる。
『だから、言っただろう?』
『気にかければきりがないと?』
『そういうことだ』
 だが、その事実を理解しても、その現実を納得はできないのだ。なぜ知っている。何を知っている。彼女はそして、何を考えている。


 にとって最も大切なのは、将臣を守ることだ。今や彼がいなくては立ち行かない平家一門のためにも、彼を無事に帰還させること。それこそが第一義。そして、このままではその第一義を無事に果たせるか否かがひどく危ぶまれるのだ。
『憂えるだけ無駄だ……そう、言ったろう?』
 言われた。言われはしたが、だからといって考えることをやめるわけにはいかない。
『神子殿の神通力と。……そういうことにでもしておけよ』
『それだけでは納得ができません』
 神の力の器になることは、全知全能になることを意味しているわけでもなければ、万能になることを意味しているわけでもない。ほんの少しだけ風変わりな力を持った、ただの人間なのだ。過ちもすれば、欲に駆られもする。彼女がもしも将臣の正体に気付き、源氏に売ろうと目論んだならば、このままでは守ることなどできるはずもない。
 何もかもを知っている風でありながら将臣に手出しをする気配がないのは、幼馴染ゆえの情けなのか、それとも本当に知らないからなのか、ほかに何か思惑があるからなのか。せめてそのぐらいを察せなければ、は己の使命を果たすことさえできないのだ。


 不安と焦りが降り積もる。上空から降り注ぐ日差しと蝉時雨に乗って、際限なくその胸に。足元を取られないよう意識の一部を割きながらも、表情は固く強張ったまま。先行きの不透明さに、ただでさえ塞ぎがちだった心がずんずん重くなっていく。
『諦めろ』
 響く声は、なのにどこまでも透明だった。彼もまた、何を知っているのか。なぜ知っていて、そして何を考えているのか。まるで己の指先さえ確認できない濃霧の中をさまよっているようだ。確かに隣にいるのに、彼の存在を感じることができているのに。その事実にさえ、不安になる。
『神子殿は、何もかもをお見通しだ』
 お前のことは、わからんがな。そう仄かに嗤いながら、獣は謡うように言葉を編み上げる。
『それが、神子殿のお力なんだ……。俺達は、なれば俺達にできることをなすのみ。……違うか?』
『それは、そうですが』
 憂いを払えない。憂いが晴れない。煮え切らない内心を抱え、それでも獣のいうとおり、自分の手の届く限りのことをなすしか方策はない。
『とにかく、お前はその名を隠すことにのみ尽力していろ』
『あとは、神子様方のお手並み拝見と?』
『先の熊野川では、ろくにお力を拝謁することあたわなんだゆえな』
 くっくと喉の奥で笑いを殺し、獣はあくまで先頭を切る神子の揺るぎない背中をじっと見やっている。
『似て非なる運命を、さて、神子殿は御すことがあたうや否や』
 あるいは独り言だったのかもしれない呟きを拾い、は背筋を走る戦慄を知る。本当に、彼は何を、なぜ知っているのか。そして、何を考え、何を目指してここにいるのだろうか。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。