波紋の滲む
ところどころで休息をはさみ、けれど順調に足を進めていた一行だったが、思わぬ相手によってその行く手を阻まれた。
「ならぬならぬ! この先には法皇様がおわすのじゃ! お前達のような官位も持たぬものが踏み入っていいはずがなかろう!」
甲高い声でまくしたてるのはいかにもといった様相の一人の青年貴族。山道の中で見かけるにはあまりにも違和感のありすぎる相手に、ご苦労なことだと胸中でごちる。
『面倒なことですね』
『法皇様は、熊野が格別にお気に召しておいでだからな』
のんびりと脳裏で会話を繰り広げるは、一行の最後尾に立ってじっと虫垂れ衣の中から遣り取りを見つめる。こういう手合いは、うまく自尊心をくすぐって言いくるめられれば勝ち。そうでなければ早々に言うとおりにした方が賢い。さて、彼らはどうするのかと観察の視線をぼんやり向ける先で、状況を打破したのは思いがけない神子の一言。
「もしかして、川が渡れないんじゃないですか?」
それはあまりにも唐突過ぎて、まったくもって意味のわからない言葉だった。空は晴れているし、これまでも特に天候が崩れた様子などなかった。川を渡るに支障が生じるようなことは、何もないはず。だというのに、その言葉を聞いた途端に青年貴族はころりと表情を変える。
「なんじゃ、お前達は京から参った陰陽師であったか」
思いのほか早かっただのなんだの、勝手な思い込みで都合のいい口実を与えてくれるあたり、便利ではあるがいささか心配にもなってしまう。院の御幸に随従しているということはそれなりに地位のある近臣だろうに、あまり考えの足りないようでは今後の出世に響くのは必定。それとも、天下の大狸と呼ばれるあの智慧者は、こういった御しやすい駒がお好みなのだろうか。
与えられた言葉と状況を幸いとばかり、一応嘘ではない“京から来た陰陽師”という触れ込みで景時を紹介し、あっという間に一行は通行禁止を言い渡す青年貴族を攻略した。無論、面倒ごとは少ないに限るが、これはこれで面倒だとは思う。
『たとえ怨霊が出たとしても、お前は下手に動くなよ?』
『承知しています』
脳裏に響く念押しの言葉にいらえつつも、さて、ではどの程度の動きならば許されるのかと考えれば頭が痛い。ここまでの道すがら、貴族の姫というにはあまりにも体力がありすぎるとの旨をやんわりと指摘されている。
同行する朔にあわせていれば問題なかろうと判じていたのに、聞けば彼女もまた戦場に立つ身。迂闊だったと内心で臍を噛み、姫は姫でも庶子ゆえに、と、あまりにも苦しすぎる言い訳で何とか体裁を取り繕っているのだ。
とはいえ、これがまたとない好機であることも事実。噂に聞くことしかできなかった源氏の神子や源氏方の将達の実力を、間近に見られる公算が高い。知ればすなわち勝利に繋がるわけではないが、知らないよりはよほどいい。
怨霊が身を潜めているのだろう。水の気配が近づくにつれ、なるほど付近には微弱ながらも瘴気が漂っているのが感じられるようになってきた。だが、神経を凝らしてようやく捉まえられる程度のものだ。よもや望美はこれを感じてあのようなことを言ったのかとも思うが、それにしては彼女の全身に漲る神通力の扱いが拙すぎる。
気の流れを整えるでなく、留めるでなく、ただふわふわと撒き散らすのは大半の人間に共通していること。はその手の訓練を積む機会があったし、例えば景時もまた陰陽師であるからには綺麗に整った気の流れを保っている。だが、望美にはその手入れの気配が見られないのだ。ならば第六感の触手を伸ばして周囲の気配を探るなどという術は持ち合わせていないはず。
一体何ゆえの看破なのかと。尽きぬ疑問は、割り込んできた声にさらに複雑に掻き乱される。
『何を思っているかは知らぬが……神子殿の不可思議なぞ、気にかけはじめればきりがないぞ?』
話しかけはするし、脳裏で紡いだ言葉を受け取りもする。だが、別に獣はの思考をすべて読んでいるわけではないのだという。明確に方向付けがなされなければ、それはぼんやりと把握することしか適わない物思いの気配に過ぎず、その程度なら、いわゆる表情を読むのと大差がないのだと。
『己がことにのみ腐心していろ。……今は、無事に本宮に還内府殿をお届けすることのみ、考えていればいい』
その物言いは、要するに獣にはが悶々と悩んでいる内容の答えが見えているということを示している。そして、それを告げる気がないことも。ちらと視線を脇に落として何食わぬ様子で四肢を運ぶ獣を見やり、は了承と諦めの意を篭めて小さく息を吐き出した。
山道の途中で出くわした次なる綺羅綺羅しい一団こそが、どうやら後白河院その人を含む一行だったらしい。思いがけないところで思いがけない相手を見る機会に恵まれたことを不思議に感じながら、耳に届く言葉に薄く口の端を持ち上げる。
見知った様子を隠しもしない九郎と、流されたのか諦めたのか、やはり堂々と面識があることを曝す将臣。そして、ヒノエもまた後白河院に面識があり、さらにはその立場を認められる存在であるようだ。思いがけない収穫を黙って胸中に収めながら、しかし好色でも名を馳せる翁が、いかにも“普通の”女性であることを示す身なりのを見逃すはずがない。
「して、そちらの娘は何者か?」
「名乗るほどのものではございませぬ。熊野権現のご利益を得んとする、一介の参詣者と」
誰の口から余計なことを言われてもぼろが出る。礼を失することは百も承知の上で、は自ら率先して口を開く。
「わがごとくわれをたづねばあま小舟 人もなぎさの跡とこたへよ、とでも申すか?」
せっかく問うてやっているのに答えずにはぐらかすのかと揶揄されて、はあくまで衣の内に素顔を隠したまま、ゆったりと声を紡ぐ。
「心こそ世をば捨てしかまぼろしの 姿も人に忘られにけり……と」
ともすれば不遜とも不敬ともとられかねない際どさを湛えた言葉を返し、衣越しであってもそれと知れるように口元に手をやっては微笑む。取るに足らない身空ゆえ、幻でも見たと思ってくださいと。歌本来の意味とは少々意味を違えるが、詠み人を揃えて切り返した機転が法皇の心を良い方向にくすぐったのだろう。一拍の沈黙の後、呵呵と笑って鷹揚に頷いてみせる。
「なるほど、それは致し方あるまいな。では、神子よ。余は引き返すゆえ、しかと怨霊を封じてくれるようにな」
「はい!」
依頼の言葉は、つまり院直々のお墨付き。明るく頷いた神子は、果たしてその言葉の持つ良くも悪くも重い意味を、きちんと理解しているのか否か。
Fin.