波紋の滲む
辿りついた川は、一見すれば何の変哲もなく非常に穏やかな様相だったが、ひとたびその近くに歩み寄れば掌を返したように荒れ狂った。嵩を増した水が轟々と唸りをあげ、近寄るすべてを飲み込まんと口を開けて待っている。
「確かに、これはひどいな」
おかげで迂闊に近寄ることもできず、一定以上の距離を空けて偽りの静穏を湛える水面を睨む九郎に同意する声はない。だが、誰もが同じことを考えていることもまた自明だった。近づけないが、近づかねば原因を特定できず、原因を取り除けない。院に直接依頼を受けたという状況もまた彼らに引き返せない理由を与えていたが、そもそも、川を渡れなければ本宮に辿り着けない。それでは困るというのも、源平の垣根を越えた共通の認識だろう。
戦えないと判断されているらしく、最後衛に置かれたその場所から、はそっと、慎重に感覚の触手を伸ばす。巧妙に隠れているのか、相手の位置は判然としない。ただ漠然と、川の中にいるとだけ。ならば相手はきっと水気の化身。瘴気の正体にして川の反乱の原因は怨霊なのだろうが、この場が熊野であることもまた大きい。
単なる死霊の変じた成れの果てなのか。それとも、神や精霊の類が変じた成れの果てなのか。そのどちらであるかによって、同じ怨霊を祓う、あるいは封じるという行為にまったく別の意味合いが付加される。
できれば前者であって欲しい。後者であった場合、熊野の霊地たる意味を支える存在の一部を人為的に欠くという結末が待っている。無論、怨霊と化したからにはそれ以外に方策がないことも事実であるが、この国において最も清きと謳われる霊地で清の権化が濁に反転せざるをえないほど世界が歪んでいるなどと、そんな現実には直面したくないのだ。
呼吸をゆるりと凪がせながら徐々に周囲へと感覚を滲ませていくの隣では、獣がじっと水面を見据えている。その姿をちらと見やり、唐突に望美が足を踏み出した。
「おい、迂闊に近づくな!」
「でも、近づかないと何もわからないじゃないですか」
一件無防備とも無謀とも思える望美の行動に慌てて九郎が咎める言葉を送るが、当人はけろりとしたものである。腰の得物だけはきちんと確認し、そのまますたすたと川に向かって足を進めると、それに比例するようにして水がどす黒く変色し、周囲の空気が澱んでいく。
「相手は水気の怨霊でしょう。僕が前に出るので、先生はさんをお願いできますか?」
「それがいいだろう。ヒノエと白龍も後ろに。残るものはそのまま構えて、敦盛は弁慶と行きなさい」
「あ、はい!」
てきぱきと各人の属性に合わせたのだろう指示を繰り出した寡黙な鬼に従って、既に足を踏み出していた弁慶を追って敦盛が小走りに進む。不本意そうにしながらもヒノエが大人しくしているのは、その属性が火気だから。霊地を流れる霊験あらたかな川をこうも支配できるのだ。ここに巣食う怨霊の力を、侮ってはいけない。
下がり、どこか不審そうにしながらもを庇う位置に立ったヒノエとリズヴァーンに、獣の纏う気配がふと皮肉な笑みに揺らいだ。意図的に気配を探っているため常よりも周囲の存在が纏う空気の揺らぎに敏感になっているは、朧な意識で『何か?』と問いかける。
『お前は、守られねばならぬような脆弱な存在ではないのにな』
『下手に動けないのですから、前面に出てくださるというならありがたく受け取ります』
『こやつらなぞおらずとも、俺だけで十分だが?』
『……控えていただける方が、面倒が少ないかと』
暗にお前の身は自分が守ろうと、そう断言してくれた獣に微笑の気配を送り、けれど返す言葉は憎まれ口にして忠告。そう言ってもらえるのは嬉しいし、その口調からして決して単なる冗談に過ぎないわけではないことも察せる。それでも、一応“ただの番犬”としか紹介していないのだ。あまり目覚しい働きをみせられて、これ以上あからさまな不信を買うのは賢くあるまい。
素直に礼を言ったりすることも無論厭われはしないが、それより獣はこういう状況を俯瞰した上での遣り取りの妙にこそ、悦を見出す性質だ。の憂いの内容など、とっくに承知の上だったのだろう。探るまでもなくあからさまな敵意を望美に向けはじめた怨霊の様子に感覚の触手を散らす様子さえ楽しげに観察しながら、くつくつと笑声を転がしている。
『出てくるぞ』
そのまま、笑い声は嗤い声に。憐憫をわずかに溶かした侮蔑の声音が、真っ直ぐ水面に向けられて脳裏に響く。
『神子殿と八葉の、お手並み拝見といこうではないか』
言われるまでもなく、それこそが目的だったのだ。間近にいるヒノエに不審がられないよう気を配りながらも、眼光が鋭さを増すのはどうしようもない。兵達の噂する“源氏の神子”は、鬼神のごとき強さなのだそうだ。
あからさまな符丁などみせたつもりはないが、どうにも自分達の素性を疑っているらしい彼女がどこまでその実力を見せてくれるかはわからないが、それこそ戦場に馴染んでいるにしてみれば、動作の端々から相手の実力を推し量ることもまた手馴れた行為。“実力を隠して”動いているか否かぐらいは、確実に見抜ける自信がある。
そして、予想も期待も微塵も裏切らず、望美が川べりに到達するや否や、水中から幾本もの触手が伸びてきてあっという間に少女の手足を束縛する。反射的に刀を振りぬいて一本は斬り落していたが、多勢に無勢では分の悪さは明白。たった一振りの刀で何本もの触手を一度に相手取ることは不可能だ。
八葉の呼ぶ声が重なる。焦りに滲んだ声がいくつも響き、間合いのぎりぎりまで駆け寄って、状況から最善を探る言葉が飛び交う。そして神子は、もがきながらも動じていない。
くつくつと、脳裏に笑声が響いている。状況の打破に必死の八葉達は気づいていないようだが、こうして一歩退いた位置から眺めているにはわかる。まるで、神子は自分が致命的な害を与えられないことを、確信よりも強く認識しているようだと。
『言っただろう?』
神子殿の不可思議なぞ、気にかけはじめればきりがない、と。嘯く声は軽やかで、それこそ獣がここで神子が決定的に害われることなどないと『知って』いることを沈黙のうちに証していた。
Fin.