波紋の滲む
しばらくは見送る視線を背に感じていたが、彼らもどうやら背を向けて歩きはじめたらしい。十分に距離が隔たったことを確信してから、ようやくは口を開く。
「外に出られるのでしたら、お声をかけていただきませんと」
「悪い」
何をどこから話そうかと将臣は悩んでいたようだったが、悩むいとまなどないし、悩む隙もないのが現状。状況を再認識してもらうための言葉をまず突きつけてから、は続ける。
「幼馴染殿とは、偶然に?」
「ああ。俺も信じられねぇけど、散歩も兼ねてふらふらしてたら、ばったりだ」
信じられないと語る声は感慨に濡れていたし、とて別に疑っているわけではない。現実なぞ、所詮そんなものだ。
「けど、それより良かったのか? 俺、てっきり断るもんだとばっかり」
「女の一人旅は、と言われて断る“貴族の姫”なぞおりません」
口をはさんできたあの青年のせいだと言外に言い切り、脳裏で状況と妥協案とを整頓しながらは溜め息をついた。
「将臣殿はともかく、相手方の素性が知れぬ以上、知盛殿には別行動を取っていただく方が無難でしょうね」
「アイツは有名人だしなぁ」
同じく溜め息をつく将臣だったが、憂いの方向がずれていることもまたは感じている。幼馴染と、その枷がないからこそ将臣が無意識に目を逸らしているだろう可能性を冷静に直視できる。彼らが源氏の一味でない保証など、どこにもないのだと。
宿に戻り、事情と顛末の説明を受けた知盛は非常に不機嫌そうに黙り込んでいたが、その姿を見せるのはまずいという理屈には素直に同意を示してくれた。それはその通り、どうしようもない。そして、だったらこれならいいだろうと言ってその外観を銀色の毛並みの眩しい、美しい獣へと変じてみせたのだ。
「すっげぇな。お前、それずっと保ってられんのか?」
纏いつく衣から器用に抜け出して床にぺったりと腹ばいになった獣に、将臣は目を円くしながらも大して臆した風もなく問いかける。
『別に、何がしかの術を行使しているわけでもない……。保つに、支障はないさ』
「うおっ!? なんだよ、今の?」
『獣の口で、人の言葉は紡げぬ。お前達の頭の中に、直接語りかけている』
微かに笑みを刷いた深紫の瞳が面白そうに、驚いてきょろきょろと頭上を見回している将臣を見つめている。
『姿を保つことより、こちらの方が労力を要する。墓穴を掘るわけにもいかぬだろう? 俺は黙しているゆえ、ただ番犬をつれている……程度に、思っていればいいさ』
「あー、それもそうだな」
あくびを噛み殺した調子でのんびりと脳裏に響く声は、いつもどおり。特に反論も思いつかなかったのか、へらりと笑って将臣は了承を示し、荷物を纏めてくると言って自分の使っていた房室へと去っていく。
結果として脱ぎ散らされてしまった知盛の衣装を拾い上げて畳みながら、は小さく呟いた。
「何か、気になる名前でもございましたか?」
『とぼけるなよ……? 弁慶、と。その名に覚えのない将なぞ、俺はいらんぞ』
「将臣殿は、そうは思っていらっしゃらないご様子ですが」
『思いたくないのだろうよ』
さらりといらえ、獣は面倒くさそうに組んだ前脚に顎を乗せて瞼を落としている。
『だが、だとすればなおのこと、俺が姿をみせるわけにはいかん。これが、何よりの妥協案であろう?』
「……ソレは、本当に害のない力なのですね?」
『今の俺は、器の縛りのない状態だからな。俺が“そうだ”と認識するそれへと、変幻自在だ』
脳裏に器用に笑声まで響かせながら、薄く瞼を持ち上げて獣はじっと御簾の絡げられた向こうにある夏空を見据える。
『ヒトであるという認識を削げば、この姿へと化す……。コレが、俺の本性なのだろうよ』
嘯く声は、ただ静かで深かった。
そのまま簡単に朝食を取り、二人と一頭は宿を後にした。どうせ、もともと荷物はさほどになかったのだ。知盛の衣装は将臣のそれと纏めてもらい、聞いたとおりの道を行く。笠から流れる虫垂れ衣を邪魔そうにしながら、獣は将臣とはを挟んで反対側を歩いている。
「とりあえず、打ち合わせどおりといたしましょう。わたしはとある貴族の庶子で、将臣殿の恩人の家の姫」
「俺はその姫さんの護衛で、熊野詣の付き添い。熊野詣の目的は、姫さんの義母親の病気の快癒祈願だな?」
「あまり多くは語らずにおきましょう。どこで綻びが出るかもわかりませんし」
『……熊野詣だのの知識が必要なら、俺の言葉をなぞっておけ』
人知れず語りかけてやるから、その通りにしゃべればいいと。この芝居の余興を楽しむつもりらしい獣の声が、くつくつと二人の脳裏で笑う。
「ありがたいけど、いきなりやられっと驚くからなぁ」
「なぞるとすれば、わたしでしょう。将臣殿は、異世界の出自ゆえによくわからないと、それを貫いていただければ大丈夫です」
「なんか、便利な言い訳だよな」
「言い訳ではなく、事実にございましょう?」
軽く声を立てて笑う将臣にやはり軽やかに切り返し、は前方に見えてきた少し大振りの建物を視線で示す。きっと、あれが指示された目的地だろう。
Fin.