朔夜のうさぎは夢を見る

波紋の滲む

 声をかけるべきか否か。逡巡はしかし、さほどの意味も持ちはしなかった。ふと目を上げた少女が不思議そうに小首を傾げたのにあわせて、に背を向けていた将臣が振り返ったのだ。そのまま明るく笑って手を振られてしまっては、もはや選択肢など残されてはいない。
「将臣くん、知り合い?」
「おう。世話ンなってる人がいるっつったろ? そこの姫さん」
 そっと距離を詰める間にも、将臣は飄々との身元を説明している。どうやら少女に対しては熊野に赴くにあたって演じている役割で貫くらしい。低められている少女の声に対し、にも十分聞こえる大きさでの答えに将臣の意図を察し、虫垂れ衣の下で薄く口の端を持ち上げる。
「もしかして、探させたか?」
「宿におられぬご様子でしたので、気にかかりまして」
「悪い。ちっと散歩のつもりだったんだけど、偶然、知り合いに会ってな」
 その隣に追いついたにからりと笑い、将臣は不審さを隠し切れずにじっとを見つめる少女を手で示す。
「前、探している奴がいるって話はしたろ? コイツがその幼馴染」
「春日望美です」
 将臣の言葉を引き取るように名を告げた少女に、は少しだけ迷ってから笠を脱ぐことにする。


 彼女の感覚では、まず顔を見せない相手というだけで不信感は拭いきれないに違いない。知盛あたりに知れれば眉を顰められそうだが、こんなところで無用に疑惑を拾って歩く必要はない。
「ご挨拶、痛み入ります。わたしは、と申します」
 笠を手に一礼を送れば、慌てたように望美もまたぺこりと腰を折っている。
「幼馴染殿と弟君をお捜しであることは、よくよくうかがっておりました。ご無事にお会いできたご様子で、ようございました」
「あ、えっと! 将臣くんがお世話になっています!」
「ははっ、なんだよ望美。お前、緊張してんのか?」
「ちょっと、将臣くん! お姫様なんでしょ? もっとちゃんとした態度じゃなくていいの?」
「いいっていいって。俺はいつもこんな感じ。だよな?」
「ええ」
 幾分上ずった声で挨拶を返してきた望美をちらとからかう将臣の気配は穏やかに凪いでいる。知盛や重衡といった、一門の中でも気安い相手と共にいる時よりも、ずっと和らいだ気配。なるほど、確かに彼女こそは彼の探し人なのだと重ねて納得しながら、は淡く微笑む。彼がこうして気楽で落ち着いた気配を纏うことは、素直に喜ばしかったのだ。


 もっとも、感情論と現実は決して相容れるものとは限らない。将臣には悪いが、達は先を急ぐ旅の身である。彼女がどういういわれ、どういうえにしでこの場にいるのかはわからないが、あまりぐずぐずしていることはできない。
 しかし、さて、時間も世界も隔たった再会に水を差すには、少々非情さが足りない。あまり長居をしてもらっても困るが、どの程度ならば許容できるかと考えるをよそに、幼馴染同士の会話はぽんぽんと進行していく。
「それより将臣くん、譲くんにも会ってあげてよ。宿、すぐそこなんだ。それに、みんなにも紹介したいし」
「あ、いや。けど、俺も仕事があるし」
「仕事って?」
「姫さんの護衛。俺ら、これから熊野詣に行く途中でな」
 なんとも際どい会話だと思いつつ、には口をはさむ隙さえない。無論、将臣とて馬鹿ではない。むしろ頭がとても切れる。どうやら頭の中でシナリオは組まれているようなので、へたに口出しをせずに成り行きに任せれば大丈夫だろうと、そう思って口を噤んでいたのに、思いがけず新しい声が会話に割り込んでくる。


「では、僕らと同行するというのはいかがですか?」
 やわらかく、甘く。ふわりと花の香が燻るような声を放ったのは、この暑さにもかかわらず黒の外套を頭から被った青年だった。
「弁慶さん!」
「お散歩の帰りが遅かったので、うっかり探しに来てしまいましたよ」
 どこか嗜める口調で、けれど底抜けにあまやかにそう微笑んで、弁慶と呼ばれた青年は望美に向かって小首を傾げる。
「どうやら望美さんのお知り合いのようですね。女性の旅路に、随身が男だけでは何かと心もとないでしょう。こちらには望美さんも、もう一人女性もいますし。よろしければと思ったのですが」
「そうですね。さんも、どうですか?」
 きらきらと期待の眼差しを向ける瞳の底で一瞬だけ煌めいた警戒の色は、過たずの瞳の底に届いている。せっかく再会できた幼馴染と共にいたい。そして、その傍にある得体の知れない存在を見極めたい。そんなところか。
 そつなく微笑みながらもやはり底の見えない弁慶の笑みと合わせた二重の微笑と、将臣の困ったような、伺いを立てるような視線を受けながらは優雅ににっこりと微笑み返す。
「もしご迷惑でないのなら、ありがたく」
「やったあ! 将臣くんも、いいよね?」
「どうぞこちらに」
「姫さんがいいってんならいいけど……。俺らにも荷物があるし」
「じゃあ、取っておいでよ。私達、この道をまっすぐ行ったところに泊まっていたから」
 戸惑うように言葉を繋ぐ将臣に目をやり、望美の提案にはが代わって頷く。
「では、荷物と共にお邪魔させていただいてよろしいですか?」
「もちろん。人手は要りようではありませんか?」
「将臣殿がいらっしゃれば、十分です」
 そつなく手を貸そうかと提案してきた弁慶にやんわり、しかし明快な否定の言葉を返し、は将臣を振り返って笑う。
「そうですよね?」
「あ? ああ、まぁな」
 歯切れの悪い、けれど確かな肯定にもう一度にっこりと笑って、は望美達の宿の場所を再確認してから一時の別れを告げて、来た道を引き返した。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。