波紋の滲む
その日の朝、がまずなしたのは褥の中で朝日から目を背けるようにしてくるりと丸まる主を叩き起こすことではなく、宿から離れてしまっているらしい彼女の護衛対象の探索に出る許可を得ることだった。
「暫く外します」
「……有川、か?」
「お一人でも大事はないと思いますが、念のため、ご無事は確認したいので」
身を起こし、腰に巻きつけられた腕を外しながらいえば、決して寝ぼけてなどいない明瞭な声が返される。眠りはろくに必要などなく、けれど眠っていなければ何を思って箍を外すかわからないのだと、気だるげに笑う瞳は遠い夜空を背にした記憶の向こう。
あの日から、知盛はそれまで以上によく眠るようになった。本当の意味で眠ってはいないのだろうが、うつらうつらとまどろむようになった。意識を溶かし、鎖し。遠く、の手の届かないところで、月日の過ぎるのを待っている。
「世話の焼ける、兄上……だな」
特に抵抗もなく緩やかな束縛から脱し、指貫と袿を手早く身につける。本当ならば動きやすさを重視して狩衣による簡易の男装か、それが無理でも水干姿を希望したかったのだが、それでは目くらましの意味がないと却下されている。この旅路におけるの役割は、還内府の護衛であると同時に、その存在を隠すための演出の一役者。すなわち、二人の武士を随身として熊野詣に参っている、下流貴族の姫なのである。
極度のものぐさの割りに芝居っけが人一倍ある主は、単身熊野に赴きたいと言い出した還内府の暴挙への苦肉の策として提示された随伴には渋面を示したくせに、この面白そうな演出を聞いた途端に態度を翻した。すぐさまが随伴する旨を邸の女房に伝え、旅支度やらその作法やらを叩き込まれる姿を楽しげに眺めていた。
身繕いを終えて振り返れば、腕を枕に、知盛がじっとを見やっている。
「俺は、このまま待とう」
「はい。もし行き違いになったとしても、必ず四半刻のうちには戻りますので」
二次遭難の起こらないよう将臣を留めおくことを願い出て、はほんの少し悩んでから、あえて笠を被るほどでもないかと判じる。だが、そのまま無手で房室を出ようとした足は、いささか不機嫌そうな知盛の声で止められる。
「笠」
「……承知いたしました」
妙なところで芝居への徹底性をみせるというか、時に知盛はに対して非常に過保護になる。設定上、それなりに身なりは良い。せっかく着飾ったのだから肌を焼くなと、陣に随伴する日常を真っ向から否定するような発言の真意は読めないが、逆らっても仕方あるまい。おとなしく部屋の隅に荷物と共に置いてあった市女笠を手に取って、は改めて見送る視線の知盛を振り返る。
「では、少々出てまいります」
「ああ」
わずかに機嫌を回復したらしい声で見送られて、は今度こそ廊下へと足を踏み出した。
まだ日が昇ってさほども経っていない時刻だろうが、既に空気は夜間の涼しさを完全に払拭しつつある。雲ひとつない空の様子といい、今日も暑くなることだろう。
先日までは馬を使えたが、熊野路に入った今は移動手段はすべて徒歩に限られている。体力はそこらの姫君の比ではないだろうが、長距離の移動に適していない装束は動きにくく、もっと動けるのにと臍を噛みながらの道程が続いている。今日はどこまで行けるだろうかと考えながらゆるゆると周囲の気配を探るものの、近くにいるらしいとんでもなく強大な陽気の塊が眩すぎて、うまく探索ができない。
困ったものだと、思いつつ足は自然とその根源へ向かう。せっかく外に出たのだ。探れる限りのことは探っておくのが得策だろう。これほどの陽の気が、単に自然発生した偶然の産物である可能性は限りなく無に等しい。陽気はすなわち陰気の対。陰気の塊である怨霊を使役する平家としては、その対称的存在である陽気の塊にはつい過敏に反応を示してしまう。
そうしてふらふらと向かった先には、あろうことか発生源とおぼしき少女と、捜し求めていた人影。何をしているのかと、よぎった疑問はすぐさま吹き飛ばされる。彼女が纏っている衣服は、あまりにも中途半端な戦装束。ミニスカートにスニーカーを身につけた存在になど、はこの世界に招かれてこの方、一度もお目にかかったことはない。
Fin.