波紋の滲む
いつだって、願うことはただひとつ。幸せになりたいし、幸せになってもらいたい。
知った顔が泣くのを見るよりは、笑うところを見ていたい。嬉しそうに目を細めて、頬を緩めて、口元を綻ばせているのを見ると、自分も嬉しくなるし、幸せになる。それはごく単純で、ごく当然の欲求だと、望美は思う。
幾重の運命を辿ったかは忘れた。余さず覚えていたいと思うし、記憶に降り積もったそれらを、どんな些細なことでさえ軽んじるつもりはない。すべてがあって、はじめて今の自分が在ることを知っている。けれど、何もかもすべてを覚えているには、人間という存在の限界はあまりにも近い。
幾重にも、幾重にもいくえにも。辿るたびに願うことは同じ。覚悟も同じ。祈りも同じ。今度こそ。そう、いつでも思い定めて時空を跳躍し続けている。
いつだって、これで最後にと思っている。適う限りの最善を選び、どうすれば“みんな”が笑っていられるのかを考えている。
もちろん、望美は自分が神ではないことをわかっている。逆鱗の力に頼って時空を巡って、失われたり悲嘆に暮れたり、憎悪に染まった顔がありふれた日常の中で笑うのを見つめてはほっと安堵しながら、いつでも罪悪感に駆られている。
これは正しいことなのか。これはやってもいいことなのか。
いつだったか、将臣が言っていた。未来を知る自分が歴史に介入し、歴史を捻じ曲げることが怖かった、と。
それは当然の恐怖だ。歴史を捻じ曲げるということは、ことこの戦乱の世の中、誰かの命を捻じ曲げるということだ。生かすこともあるだろう。だがそれ以上に、殺すことがある。己の命にさえまったき責任を担えない小童が、一体どうして他人の命を左右するだけの権利を持ちえるだろう。そして、言われてはっとした自分を、望美はその時とてつもなく恥じたことを覚えている。
驕ったつもりはなかったし、覚悟を忘れたつもりもなかった。それでも、どこかで逆鱗の力に慢心し、次があると考える自分がうっそりと嗤っていたことに気づかされたのだ。
けれど望美は諦められなかった。誰かの命をこの手で殺しているのだと、その事実を望美の目の前に突きつけるのは、いつだって壇ノ浦で恍惚と笑って幕を引く銀の獣。生と死のはざかいにこそ生きがいを見出す、あまりにも研ぎ澄まされすぎた美しき命。
彼の生き様と死に様を目の当たりにするたびに、何度でもリセットを繰り返す自分が糾弾されている思いに駆られる。彼は何も知らないし、別に望美への非難の言葉を口にするわけでもない。むしろ、何も知らないはずの鋭い眼差しで、あまりに本質に近い望美の真理を見抜き、指摘する。
お前は俺と同じモノ。己の欲求にこそ忠実な獣。その欲を叶えるために、刃を手に軍場を駆ける狂言者。
剥きになって否定したり、冷ややかに切り捨てたり、そっと慰めたり。そんな周囲の気遣いをありがたいと思う一方で、いい加減、望美はその指摘を受け入れた。否定することを諦めたのではない。拒絶する自分の矛盾を直視することが恥ずかしくなり、肯定することへの覚悟が生まれたのだ。それも、いつのことかは忘れたけれど。
いくつもの選択肢と可能性と、そして未来とに出会った。あらゆる可能性を下地に、目指すのは和議締結への道。
三草山では負けるわけにいかない。熊野は中立でも構わないから、ヒノエ個人の理解を得る。その上で、有馬の陣にて政子からの命令を封じるだけの布石を打つ。何をどうするのが最も効果的なのかはわからない。けれど、なんとしても実現させると決めたのだ。だから望美は譲らない。
そう思い定めて手にした逆鱗に導かれ、やがて辿りついた運命において望美は“福原を攻める”という新たな可能性に出会う。六波羅でヒノエに出会ったことといい、不可思議な十六夜月の逢瀬といい、この運命を望美は知らない。未知へと踏み出す恐怖と期待が、胸の中でせめぎあっている。
福原を攻めるということは、平家の力を大幅に削ぐということ。頭の中で、やはりいつかの記憶が再生される。あれは誰だっただろう。退却の隙さえ与えず抵抗するだけの力を奪ってしまえば、降伏の勧告が可能だと言っていた。
ならば、ここで攻めることもまたひとつの選択。ここで過ぎるほどの戦功を立て、その褒賞にと和議勧告を願い出ることもできるかもしれない。
「行きましょう」
危険な賭けに、望美はあえて乗ってみる。
そして、いつもと同じ、けれど何かが違う熊野に立っている。夢の向こうで触れかけた気配を追って、気紛れにそぞろ歩く朝もやの中で出会ったのは懐かしい、そしてその変貌振りさえ見慣れた幼馴染。
「よお、久しぶりだな」
あなたは何を思ってここにいるの。何を覚悟してここにいるの。逃げ出す隙さえないはずだった平家の面々を屋島へと導き、常勝将軍と謳われる嫡流の公達を失い、徹底的に追い詰められてなお笑うその強さの裏で、一体次は何を考えているの。
予定は大きく変わりつつある。熊野の協力を、今回の望美は譲れない。ぼろぼろになった平家に、さらに圧倒的優位を見せ付けた上で和議を勧告すること。これが、最善にして最も堅実な和議への道筋だと見定めたのだ。
きっと、自分の行動はこの優しくて強い幼馴染をいっそう追い詰めることになるだろうと知っている。けれど、束の間でもいいから傍にいたくて、傍にいて欲しくて、笑っている姿を見ていたくて。いつものように一緒に来ないかと声をかけようとしたところで、いつもの熊野との違いが人の形を取って現れる。
気配を殺し、足音さえなく、いつの間にか道の真ん中に立っているのは市女笠姿の女性。こんな遭遇は知らないと、思わず目を見開いてしまった望美に気づいたのか、振り返った将臣が気楽な調子で片手を持ち上げる。
「将臣くん、知り合い?」
「おう。世話ンなってる人がいるっつったろ? そこの姫さん」
あまりに自然な調子で紡がれた嘘を嘘だと知っている望美をよそに、見知らぬ、そしてありえない可能性が足を踏み出す。
Fin.