あの日の渇仰
鐘の音が戻ってくる。怨霊の咆哮と、がらがらと迷宮の崩壊する轟音も戻ってくる。しかし、不安も焦りも存在しない。なぜなら、娘が名を明かすと共に空間を満たした淡紫の光が、自分達を護ってくれるとわかっていたから。
「行こう」
眩しすぎて視界は完全に奪われていたが、視野が焼かれているのとは違っていた。そっと優しく白龍の声が促し、気配だけで近くに集っているとわかる面々が、戸惑いながらも足を踏み出すのを感じている。
「大丈夫。あの二人は、五行に還るんだ」
そして世界に満ちて、いつかどこかに巡っていく。降り注ぐ、この数多の世界と同じように。
すべての感覚が曖昧に溶ける空間に漂いながら、知盛は導かれるように首を巡らせた。五感さえままならないのだから、当然のように方向感覚もあやふやな世界を、それでも確かに振り返る。
「お前こそ、今度は、ちゃんと掴まえておけ」
いつかの神子に皮肉と嫌味にまみれた箴言を残した“自分”が、確かに救いを願っていたことを知盛は感じていた。彼女は忘却の向こうでさらに磨耗し尽くすほどに救いようもなく世界を渡り歩いたようだけど、きっとこれでその螺旋も断ち切られるだろう。
世界を切り捨てる代償とばかりに胸に降り積もる奈落のような後悔と絶望を受け止めるのさえ、対価としては優しすぎる。
矛盾はここで崩壊する。そして自分はやはり前に進む。
「俺達は約を交わし、互いに辿り着いたんだ……今度こそ、手放しはしないさ」
“アレ”の望むように、俺の望むままに。嘯いた自分の声に重なって、遠い笑声が穏やかに滲んだのは幻聴ではあるまい。
同じなれど異なる、異なれど同じなる。先日ヒノエの嘯いていた言い回しがいかに正鵠を射ていたのかを思い知って、ほんの少しだけ知盛はわらった。
自分自身のものではない、けれど確かに“自分”の感じていたとめどない情動を振り切るようにして足を踏み出した背中に、遠い過去の記憶が触れる。
――共に、生きてみたかった。
異なる命の抱いたたったひとつの透明な祈りには、皮肉など添えずに微笑んで「そうだったな」と言い置いた。
大丈夫、もう悔やまなくていい。三千世界を踏み越えて、自分達の祈りは、ここでこうして成就した。
Fin.