あの日の渇仰
あの世界でもこの世界でも、彼らは深紫の瞳がかくも頼りない光を弾くのを見たことなどなかった。違うかもしれないと、その可能性を知らなかったものなどいない。
望美達は、ちゃんとわかっていた。こうしてこの世界で生きている“知盛”も“”も、自分達の目の前で消えてしまった存在そのものではないと。ただ、あまりにもその在り方が『同じ』だから、可能性を思い、願いを馳せて、祈りが届いたとまどろんでいた。そうすることで、傷口を塗り固めてしまうことを願ってしまっていた。
「引きずられるな」
ゆるゆると首を振り、“知盛”は“”を押し返す。
「お前は、俺を通じて、可能性に惑っているだけだ」
もはや、存在したという記憶さえも葬り去られる運命にある、ただ消えるためだけの夢に。
「呼んでください」
だが、は譲らない。重ねて乞う言葉に導かれるように、眠ると立ち尽くす“知盛”の携える深紫の水晶に、夕暮れを思わせる淡い光が満ちていく。
「この“わたし”は、“あなた”を求めて生み落とされた、ありうべからず可能性。魂の陰影。わたしもまた、あなたと同じ、矛盾を切り捨てるための楔なのです」
言葉が編み上げられるほどに、隠されていた絡繰りが暴かれていく。
彼は楔。彼は可能性。切り捨てられた数多の世界を象徴する、望美にとってあまりにもわかりやすい導の形代。選ぶ未来のためには切り捨て、打ち倒し、乗り越えねばならない存在があることを教え込んだ銀色の意思。
彼は望美が選ばなかった道そのものではないけれど、確かに“望美”が選ばなかった道なのだ。そして、終わらない繰り返しを重ね続ける“望美”ごと世界を終わらせるための、導であり墓標なのだ。
「終わらない夢から、また、“わたし”を醒まさせてください」
引き剥がされた距離をその細い指で繋ぎなおし、であってそうではない幻想が乞う。それは現実から夢を切り離すための荒療治。成功率などわかるはずもない、限りなく危険な賭け。けれど安全のためにと阻むための声を上げることができないのは、きっと誰もが祈っているから。
どうか、どうかどうか。
並び立つことをきっと世界は許さない。矛盾は淘汰され、理が世界を支配する。でもどうか、ただひとつ。この例外だけでいいから。
どうかどうか、絶望ではなく希望を抱いて彼が世界を眠らせられるように、奇蹟を許してほしいのだと。
沈黙が場を満たすには、迷宮内はあまりにも逼迫した状況に見舞われていた。静かに見守りたいのに、どこかに残った冷静な思考回路が、猶予はもう残されていないとうるさいほどに叫んでいる。
それでも、だからといって誰に、この切実な、かそけき希望に縋る絶望の申し子達を邪魔立てる権利があるというのか。もう少し、もう少しだけ待ってと望美は心の底から願いと祈りを引き絞る。この迷宮が自分の心で創り上げられているというのなら、創造主たる自分の贖罪の一部を肩代わりしてくれようというこのどうしようもなく優しい魂のために、もう少しだけ時間を。
確証のない祈りを捧げることしかできない自分の身が、どこまでももどかしい。彼らの共有した絶望を知っているからなおのこと、望美はもはや『やり直す』という傲慢さを選択肢に数えることさえできない。
すべての可能性を振り払って、どれほど罪深くともこの世界を生きると決めた。その決意を微笑んで見守って、背中を押してくれた幻影の声が脳裏に蘇る。自分の過ちを、だってお前は知っているだろう、と。
「なまえ、を……」
ああ、そして世界は残酷だけれども慈悲深い。細く細く掠れた声に、望美は自分が世界の慈愛に遭遇している僥倖を思い知る。
「神は、聞いていらしたわ。“あなた”の、さいごの渇仰を」
もはやさほどの距離もないだろう崩壊を、溢れる淡い光が押しとどめている。ありとあらゆる慈悲にそっと包まれて、頼りなく光を滲ませた瞳で青年が囁く。
「……奈落に堕ちることを、求むなら」
お前の名を、告げてくれ。お前自身が纏う名を。お前を呼び覚ます、真の名を。
「世界の贄。許されざりし希求。絶望と狂惑の愛し子」
隔てる距離を繋ぎとめていた指を絡め取り、あまりにありふれた恋をする声で、甘やかに“知盛”は問いかける。
「夜叉姫。お前の名は、何という?」
ずっとずっと、そういえば娘は望美達に背を向けたままだった。けれど、声から表情を読むことは可能だった。深い喜びに濡れた声で、甘く淡く、“”もまた恋を返す。
「――と、申します」
Fin.