あの日の渇仰
言いたいことを言うだけ言って興味を失ったように水晶を放ってよこし、青年はゆったりと階段に足をかける。思わず反射的に受け止めた将臣と、呪縛が解かれたように身を乗り出して「あなたは……!」と叫ぶ望美を、縫いとめたのは響く悲鳴。
「新中納言様ッ!!」
周囲の様子などまるで目に入らない様子でもがくのを引き止める知盛の腕の中から、意識を取り戻したらしいが悲壮な声で中空に指を伸ばす。何事かと目を円くする視線の先で、過去と未来のあらゆる可能性が入り混じる。
半身だけ振り返った朽葉色の袖の中に、姿を結んだのは見慣れた背中を覆うほどの長い髪だった。見慣れぬ緋色の衣が流れて、細く抜けるように白い肌で覆われた、あるいは残忍な慈悲を灯す指先が、ひしとその身に縋りつく。
「……早く抜けねば、巻き込まれるぞ」
感情の読みづらい、平坦な声。停滞していた空気を打ち破ったそれにはっと息を呑み、一行が身構えたのは先までの望美と神の一件を彷彿とさせられたからだ。朽葉に包まれるのは確かに“”なのに、目を見開いてその背を凝視する知盛が支えているのも。
コレは何か。
夢か、罠か。
それとも――世界の慈悲なのか。
「赦されるとは思っておりません。ですが、どうか、共に参りますことをお許しください」
他ならぬの声で必死に紡がれるとんでもないセリフに、知盛の纏う気配が剣呑さと困惑に沈む。
「やっと、手が届くようになったのです」
声は、これまでに聞いたことがないほどの絶望に沈んでいた。悔いて悔いて、悔い続けて、それでも追いつかない失意。魂さえ切り刻むような、圧倒的な自責の渦。
「わたしはあなたに、絶望など渡したくはありませんでした」
紡がれる過去を、望美は知らない。将臣も、敦盛も知らない。もちろん、知盛も知らない。
「許されるなら、あなたを愛したかった」
けれど、知らないはずなのに、その絶望の顛末は視えていた。
「お願いです。やり直す機会を、許してください」
彼らが凶刃にて舞いあげた狂恋の結末を、余すことなく知っていた。
境界を失って混沌と入り乱れる可能性の記憶に戸惑う隙すら許さずに、“”とは違う色の失意を滲ませた“知盛”の声が、低く、哀しく問いかける。
「……俺が、醒まさせたのか」
縋る体を支えはせず、完全に身を振り返らせて見下ろす視線は、確かな後悔を湛えている。
「お前もまた、夢の残滓なのだな」
それは、この不可思議がどうして成り立っているのかがわからずにいる一行にとってはありがたい手がかり。知りたくなかった、揺るぎ無い現実への足がかり。
「眠れ……。その魂は、お前の、そのものではない」
振り切るように視線を持ち上げ、ちらと見やるのは“”が抜け出るや再びぐったりと意識を失っているの姿。
「ここは現し世……俺も、お前も。ホンモノに座を明け渡し、露と消えるべきうたかたに過ぎん」
少ない言葉からも不穏な可能性を汲み取ることは難しくなく、さっと張り詰めた気配に包まれながら青年は己に縋る娘を見下ろす。
「かほどに願っていたではないか」
往きたい、醒めたい、辿り着きたい。夢と現実が入り混じる世界などいらない。同じなれども異なる存在を目の当たりに、狂気と絶望の断崖絶壁に身を躍らせたのは他ならぬお前。
「“お前”は、辿り着いたんだろう?」
「“わたし”は、“あなた”を探していたのです!」
かなしくも愛しげに諭す声に、必死にかぶりを振って娘が顔を上げる。
「どうか、呼んでください」
崩壊によるタイムリミットを告げる音が、大分間近に迫ってきた。怨霊の呻き声は大きくなる一方で、雑音ばかりが高まる中を、鋭く冴え冴えと透明な決意の声が縫う。
「あなたのくださった、“わたし”だけの名を」
“わたし”は、そうすれば別たれる。
「これは、“わたし”が欲した対価だから」
血を吐きそうな悲痛な声での懇願に、逆に影が困惑をみせる。眉根を寄せ、躊躇うように。そっと“”を引き剥がす。
Fin.