朔夜のうさぎは夢を見る

あの日の渇仰

 駆け戻る道に怨霊が残っていないのは、本当に幸いだった。迷宮が奥から崩壊していく。抗えないほどの速さではないが、油断はできない容赦のなさで。地が震え、轟音が近づくのを背に感じながら、一行はひたすらに美しき静穏の庭園を駆け抜ける。
 大丈夫だろう、きっと。このまま走り抜ければ、必ずや無事に出口に辿り着ける。その発想が油断だったと、いったい誰に責める権利があるだろう。だって、それは確かな推測だった。状況を照らし合わせて、疑う要素など微塵もなかったというのに。


 廻廊を抜け、続く階段を一息に駆け下りようとして、踏みとどまれたのは奇跡に近い。なぜ、どうして、どんな理屈で。
 最初に開かれたということは、奥に進むにあたって何度となくさまよい続けた区画。なればこそ、リズヴァーンを追いかけて数時間前に踏み入った際には、もはや怨霊は影も形も見せなかった、徹底的に祓われた場であるはず。
 だというのに、ひしめく禍々しき気配は間違いなく怨霊の群れなのだ。
「タダで出す気はないってか?」
 それこそどんな絡繰りが働いているのかはわからないが、怨霊達は望美達のたたずむ階段の上には登れないようだった。乞うように、誘うように。仰いでは口を開け、餓えに濡れた呻きを重ねていく。
「だったら、道を切り開くまでだ」
 不敵に笑って大太刀の柄を握り直した将臣の隣に、鞘を払って九郎が並ぶ。それにつられるようにして次々に己の武器を構え直す一同には、しかし戦意と同時に無視しえない嫌な緊張感が滲んでいる。
 無理からぬこと。そう思ったのは、知盛がこの件の関係者でありながら、結局どこまでも当事者にはなりきれなかったから。そして、だからこそ見えていたのかもしれない白昼夢が、最後の最後になって現実に影を結ぶのを、見知る。


「……無駄だ」
 響く声は、右手から。望美達が立つのとは逆の端の、階段への入り口を象徴する柱の影に。けだるげで、どこか笑いを含んでいて、けれど偽りなど微塵も含まれていない。真理を暴く、容赦ない声。
「アレらは、“お前達”がこれまでに封じ続けた、数多の怨霊」
 振り返ったいくつもの瞳が確かめるように知盛を見やり、そして再び声の主へと戻される。より深い驚愕と悲しみと、絶望を載せて。
「この虚構と共に、世界へと還される、その過程……それはすなわち、世界の理」
 胸元で組んでいた腕をほどき、体重を柱に預けた姿勢はそのまま、声の主は視線を持ち上げる。
「お前達は、世界を形作る理を、葬れるとでも思っているのか?」
 どこを見やっているとも知れない深い深い紫水晶の瞳に、知盛はそっと、腕の中の娘を抱く力を強める。


 唖然と見つめる視線の筵の中で、銀杏色の着物を不思議に着崩した青年は、左の拳を突き出すようにして知盛を指し示した。
「導を、渡しただろう?」
 言いながら緩められた指の合間から、紐で吊るされるのは娘が首から提げているのと揃いの紫水晶。うなじから垣間見える鎖を慌てて手繰るものの、その先にもまた同じものが吊るされている。
「それは、守りであり、鍵であり……証だ」
 重ねられる不可思議な言葉に呼応するように、内から光を放つ結晶は美しい。そして、切なくて、優しい。
 己が指の先で溢れる光にそっと目を細めて、青年は囁くように告げる。
「往くと良い」
 辿りつけはしなかったが、もういいさ。“お前”のことを、“俺”は見失わなかった。それを知れたなら、もう、終えられる。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。