朔夜のうさぎは夢を見る

ひとつのはじまりの記憶

 禍々しさに満ち溢れたその部屋には、呆れるほどに何もなかった。
「どういうことだ?」
「わからん。だが、油断しては――」
 誰もが少なからず困惑し、足を止めてぐるりと室内を見回す。その疑念を素直に口に載せたのは天の青龍で、戒めたのは地の青龍。しかし、何よりも的確だろう箴言は、最後まで紡がれることなく行動をもって示される。
「――ッ!?」
 鋭く息を呑む音は、刃と刃がぶつかり合う硬質な音を追いかけて。それぞれが反射的に臨戦態勢をとった中央で、刃を交えるのは望美と九郎。
「ねえ、九郎さん。どうして私に剣を向けるの?」
 悲しげに眉根を寄せて、望美は微塵も力を緩めずに問いかけた。
「私のこと、守ってくれるんじゃないの? これじゃあ、私を傷つけるのと一緒だよ」
「のぞ、み?」
 呆然と呟きながらも、九郎の額には冷や汗が浮いている。絶対的な膂力の差は否めない。だというのに、どうやら二人の刀は拮抗状態で止められているらしい。
「私を傷つける八葉なんて、いらない」
 軽やかに、冷やかに。あまりに残酷な言葉をいつもの口調で明るく紡ぎ、わずかにひるんだ九郎を望美は難なく吹き飛ばす。


 慌てて、しかし確実に受け身をとるのはさすがの実力だろう。近くにいた敦盛とヒノエが庇うように九郎の前に立つが、回転の勢いに乗った望美は見向きもせずに反対側にいたリズヴァーンへと刃を振り下ろす。
「神子ッ!」
「先生まで、私に剣を向けるんだ?」
 刃を受け止めるには、刃を用いるしかない。悲壮な声で呼ぶリズヴァーンに嘲弄を潜ませた声で悲しみを取り繕う望美は、舞うような動きで間合いを取り、中央へと立ち返る。
「嫌だよ、そんなの。私のことを守ってくれないみんななんて、嫌い」
 ふるふると首を振り、いかにも悲しげに伏せられた瞳が、ゆぅるりと持ち上げられる。
「嫌いなんだから、ぜぇんぶ壊しちゃえばいいよね?」
 歪められた唇を、真っ赤な舌がねっとりと這う。それが舌舐めずりなのだと認識したのは、がらんどうの部屋に据え置かれていた豪奢な鏡の向こうから、溢れるようにして怨霊が襲いかかってくるのを捌く向こうに。


 悲しいかな、場に居合わせる誰もが戦闘行為には既に馴染んでいるのだ。手近なメンバーとタッグを組み、確実に身を守りながら高らかに笑う“望美”に呼びかける。
「神子、神子! お願いだ、負けたりしないで!!」
 悲壮さに塗り固められた白龍の声を聞けば、何が起きているのかを察することなど難しくもない。“心のかけら”を取り戻すことは、望美の力と心を取り戻すこと。望美の中に、異国の神を取り入れること。
「目を覚ませッ! 神子姫ッ!!」
「望美、聞こえるでしょう!? あなたなら勝てるわ。負けたりしないで!」
「みんな、何を言ってるの? 私は望美だよ。みんなの神子」
 ふふっと軽やかに微笑み、溢れる怨霊を背に鏡に手を合わせながら、振り返る。
「あなた達のせいで歪んでしまった、虚無を抱く魂」
 鏡面に触れあわされた細い指の向こうには、まるで違う表情をした“望美”が映っている。
「だったら別に、わたくしがいただいても、構わないではありませんの」
 ねぇ。そうひそやかに微笑んで、あからさまな嘲りを湛えて“望美”は鏡を覗き込む。


 絡繰りがわかりやすいのはありがたいが、紐解くのには遠すぎる。そして、これは手が届かない問題であることを、誰もが既に直感していた。
「本当はあとほんの少しだけ足りないのですけど、もう待つのにも厭きましたわ」
 わたくし、焦らされるのは嫌いなの。隠す気が失せたのか、そう振る舞うのも計算の内なのか。望美の体を乗っ取った神は、もはや口調を装うことなく謡うように告げた。
「このままではちょっと食べにくいから、こうして演出を用立てましたのよ」
 泣き叫んでいるのだろう。鏡面を必死に叩き、届かぬ叫びを絶えず上げ続ける望美の様子をうっとりと眺め、絶対の境界に頬を寄せて神は嘯く。
「あなたにはもはや『見慣れた』光景かもしれませんけど、こうして一度に喪うのを目の当たりにしたことは、なかったはずですものね」
 敗北を突きつけられた怨霊の阿鼻叫喚も、血を吐かんばかりの切実さで呼ばう声も、きっとすべてかの神にはご馳走に添えられるスパイスでしかないのだろう。くすくすと鈴を転がすような実に愛くるしい笑声をこぼして、鏡に寄り添う姿はどこまでも妖艶で、場違いにも目を奪われる。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。