朔夜のうさぎは夢を見る

ひとつのはじまりの記憶

「……“心のかけら”を取り戻すことの意味を、わかっているのか」
「はい」
「それによって、お前の身には何が齎される?」
 低く、ただひたすらに望美を案じる声が、問う。
「安寧か、危急か。それをわかった上で、お前はこれを求めるのか?」
「どんなに危険な賭けでも、私は先に進まないといけないんです」
 断罪を待つ咎人の瞳で、望美はぐっと拳を握り締める。
「私は、受け止めないといけないから」
 声は静謐で、いっそ厳粛でさえあった。ここにこうしてひとりでやってきたリズヴァーンの意思を脆いというつもりはないが、今の望美の意志を覆すには足りない。不安を払拭することのできないまま、地の玄武が龍神の神子の前に進み出る。
「それが、お前の決断ならば」
 そして、神子の意思を尊重することが、リズヴァーンの決断なのだろう。そっと差し出された蒼い結晶を望美の細い指先が受け止め、その身の内へといざなっていく。


 淡い光が体に吸い込まれていく間、望美は胸元をぎゅっと握りしめ、今にも泣き出しそうな瞳でつま先を見つめていた。先日はあたたかな感じだと言っていたが、もしかしたら、欠片によってはそう心地良いものでもないのかもしれない。
 すべてがすべてあたたかい思いばかりで成り立っている心など、存在しない。正の感情があれば負の感情があり、幸福な記憶があれば、絶望の記憶もあるものだ。
「行きましょう」
 視線を落したままぽつりと呟き、望美は勢い良く顔を上げた。
「最後のかけらを取り返して、今度こそ荼吉尼天を封印します」
 凛と揺るぎ無く前を見据える姿に、もはや迷いは感じられない。終焉に辿り着くための扉が押し開かれるのを見守りながら、ようやくまみえられるのだろう悪夢の正体を思って、は小さく息を詰める。


 畏れるように、憚るように。ぱったりと気配をかき消してしまった怨霊に襲われないのは、ありがたいことだが不気味なことでもあった。理性を持つものは、虚勢を張ることを知り、己さえも欺くことを知っている。ならば、理性を持たないモノにそのような矛盾はありえない。
 本能にこそ従って、餓えた魂のうつほを満たしたいのだと眩い陽の気を喰らおうと襲いくる彼らが身を潜めているなら、それは欲求を凌駕するほどの恐怖があるからだろう。望美がリズヴァーンから“心のかけら”を受け取ることによって開かれた最後の扉の向こうを進みながら、じりじりと肌を差す怖気に待ち構えるものの強大さをただ噛み締める。
 そう、そうだコレだ。この、全身全霊が悲鳴を上げて嫌悪する気配。神経の端々までもが拒絶する恐怖。自分は辿り着くだろう。だからきっと、今回は道を過たなかった。そう確信する一方で、はひそかに恐怖する。
 同じ轍を踏みたくなかった。だからこそと、あえて踏み込んだ道がある。その向こうで、そして自分は何を得たのか。
 失意であり後悔であり、底知れない恐怖だった。結果として、今の自分はまだ何も失っていない。だが、同じ過ちを繰り返した時、同じように何も失わない未来が待っているとは限らない。


 持ち上げた視線の先には、わずかに緊迫感を滲ませた無表情。張り詰めた鋭さが刃のようで、美しいと思い、哀しいと思ったことを覚えている。
 張り詰めて、研ぎ澄まされて、休まることを忘れた美しい魂の持ち主。阿鼻叫喚の響き渡るこの世の地獄の中に真理を見出してしまった、破綻した命の在り方。狂惑の軍神。戦乱の愛し子。死も恐怖も絶望も、あなたを愛し、あなたを彩ることを選んだ。
 浮かんでは消えるとりとめのない見知らぬ感慨に、憐れなことと思いを馳せる。溺れても掴まえていてくれると、とりつけた約束が、にこの不可思議を憐れむゆとりさえ与えてくれる。
「終わらせましょう」
 出どころのわからない決意はひどく凪いだ哀絶と殺意を伴い、声に出せばとりとめなくざわめいていた感慨が一斉に静まり返る。
「何を?」
 独り言のつもりだったのに、隣を走っていた知盛が律儀に問い返す。からかうように、見極めるように、慈しむように。
「終焉を喪った、ありうべからざる繰り返しを」
 ねえ、そうすれば“あなた”はきっと、“彼”と生きる輪廻へと、辿り着けるのでしょう。
 声に出さずに語りかけた相手は、誰なのだろう。それは見えざる幻想であり、あるいは踏み入った恐らくはこの迷宮の最奥にして中枢である間に現れた、神子の影を纏う異国の神なのかもしれない。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。