朔夜のうさぎは夢を見る

ひとつのはじまりの記憶

 もはや、何もかもがぐちゃぐちゃだった。ほんの少しだけ出掛けるつもりが、意外に長くなって夜になってしまったのは確かに達の落ち度だろう。だが、たったそれだけの時間でよくもここまでと思うほどに、すべてが一気に転がっていく。
 要請を受けて夜闇が満ち始めた街を走り、辿り着いた先は鶴岡八幡宮。徒人の目には映らない、隠された真理へと至るための、運命の扉の向こう。
 探し人はリズヴァーン。どうやらあの後、景時が襲撃された現場において、望美は優しさゆえにと伏せられていた処々の事情を悟ってしまったらしい。それによって有川邸ではこうして全員が迷宮にやってくるまでに一悶着あったそうだが、終わったことを蒸し返す趣味はにはない。ただ、暴かれた事情を、必要な情報として受け取るのみ。


 一人で行方をくらましたリズヴァーンは、景時があの傷と引き換えに守り抜いた望美の“心のかけら”を携えているそうだ。さらに最後のかけらが迷宮の最奥に眠っているだろうという景時の推測を付け加えられて、何故こうも迷いなく彼らが先へ進めるのかを知る。
 そして、ぼんやりと察していた絡繰りが明瞭に描かれていくのを聞くことで、はようやく真理の名を知ることになる。
 荼吉尼天。魂を喰らうという異国の邪神。
 “心のかけら”は、喰らわれた望美の魂の一部。この迷宮は、喰らわれることによって生じてしまった心の空間に編みあげられた一種の監獄。魂を喰うことで依りついた邪神を封じ、反面望美から力を欠けさせていた正体。
 取り戻すほどに力を増したのは当然。それと共に異国の神を取り入れてしまい、時に意識を乗っ取られてしまっていたというのが、これまでの当人の記憶が抜け落ちていた行動の真相。
 気づく者もあれば、気づかない者もあった。その中で、定めた道が違っていた。だから、思惑が交錯し、往く道が定まらなかったのは無理からぬことだろう。最終的には敵を打倒するという正攻法が選ばれたらしいが、誰が正しいとか、どうするべきだったとか、そんなことを言える権利は自分にはないとはわかっている。何が正しいかなんて、誰にもわからない。
 だって、どの主張もすべてが正論なのだ。迷宮を暴き、荼吉尼天と真っ向からぶつかり合うべきだとする理屈もわかる。このまま迷宮の謎をとどめ、“心のかけら”に巣食った荼吉尼天がこれ以上望美に入り込むのを防ぐべきだとする思いもわかる。
 だが、彼らは肝心なことを見失っていた。愛しく思うがゆえに、その存在を守りたいと願うがゆえに、忘れてはならないことを忘れていた。


 これ以上の侵蝕を食い止めねばならないと、ひとりですべてを背負おうとしたのは地の白虎。その一心で望美の心のかけらを探しだした地の白虎の覚悟を悟り、共に悪役になろうとしたのは地の玄武。さらに、これ以上神子の身に危険が及ばないようすべての可能性を摘み取ろうという発想に至ったのは、思慮深さゆえの不幸だろう。
「“心のかけら”を、渡してください」
 一行が追いついた時、リズヴァーンはかなりの傷を負っているようだった。慌てて助太刀に入り、彼の対峙していた怨霊を封印して、望美は深く傷ついた声で訴える。
「一人で行かないでください。一人で背負わないでください」
 忘れてはならないことを忘れていたから、望美は己の心が作り出した迷宮の存在意義に気づくことが遅れた。
 見失ってはならないことを見失っていたから、八葉は守りたいと願う行動で神子の心を傷つけた。
「私は確かに頼りない神子だけど、でも、だからって先生にすべてを背負わせて、それで平気でいられるような人間じゃありませんッ!」
 守るという行動は、独りよがりでは成立しない。身を護ることは、案外たやすく達成できる。けれど、同時にその心を傷つけずにいるには、守りたいと願う相手の思いに向き合うことを忘れてはいけないのだ。


 悲しくて切なくて、真摯で優しい声だと思った。八葉が真実を隠してでも守りたいと願い、それぞれにどうすれば望美を傷つけずに終焉に辿り着けるかと足掻いていたのも、素直に頷ける。こんなにも切実に、必死に、なりふり構わず彼らを案じる神子なのだから、同じ思いを返したくなるのはきっと当然の成り行きだったのだろう。
「お願いです、先生。一緒に戦ってください」
 じっと、傷と困惑をないまぜにした表情で望美を見つめていたリズヴァーンの瞳を、光がよぎる。
「私一人だと、負けてしまうかもしれない。でも、みんなで戦うなら、きっと勝てます。私は必ず、勝ってみせます」
 対してその瞳を凛と見つめる望美の瞳には、脆く、けれど揺るぎ無い覚悟が満ちている。だから、先生の力を貸してください。そう訴える声に、満ち満ちるのは彼女のひた隠す弱さ。
「私を、信じてください」

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Fin.

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