ひとつのはじまりの記憶
痛いほどの沈黙を破ったのは、声でもなく足音でもなく、そっと逸らされた深紫の双眸だった。俯くことで銀の睫毛が繊細な影を落とし、紫水晶にやわらな紗幕をかける。
きっと視えていないのだろうな、と思う。そして、気づいてさえいないのだろうと。それが良いことか悪いことかはわからなかったが、ただ切ないと思ったのは、見つめる瞳の奥で燃え盛る恋情の色を見つけてしまったからだ。
しゃんと背を伸ばし、何かに脅えながらも未来を見失うまいと両足を地につけて立つ娘は、ひどく美しかった。ステンドグラスから降り注ぐ淡いオレンジ色の光が、祝福するかのようにその身を優しく包んでいる。
まず、寄り掛かっていた柱から身を起こした。何かに頼るのではなく自分の力だけで立ち、次に組んでいた腕をほどく。いつしか持ち慣れた双太刀は左手に。無手となった右手を持ち上げ、同時に視線も持ち上げる。
知盛は、己が無神論者であることを知っている。科学万能説を唱えるつもりもないが、祈るだけで何かが救われるとも思わない。救われたいなら、まずは己の力で道を探さなくてはならない。そうして足掻くことを前提として、初めて誰かの助けを求める権利を得られると思っている。
信じるだけで救われるなら、この世界に五万といる救われない人間は、では信心が足りないのか。そんな馬鹿げた理屈があるか。自分達は、夢の世界の民ではない。
確かに、この広い広い世界には、人智の及ばぬ何かも存在するだろう。それを立証する面々と言葉を交わし、よしみを結んだ。いまだに不思議な感覚だが、神なる存在ともまみえることとなった。
ゆえに、その存在は認めよう。はなから否定していたわけではないが、疑わしいとばかり思う心を改めるぐらいの度量はあるつもりだ。だが、だからといってすべてを明け渡すほど、何もかもに価値を置いていないわけではない。
手を差し伸べ、まっすぐに見つめ直して、知盛は告げる。
「夢ごときに呑まれるような、そんなか弱い女なのか、お前は」
振り返るなよ。そちらを見て、そちらを選んだりするな。お前は掴まえろと言った。だが、掴まえても掴まえても、この指をすり抜けるのはお前だろう。ならば、お前を掴まえておくのに必要な要件は、俺の意思と、そしてお前の意思が一致することであるはず。
夜闇色の瞳だけを見つめる。その向こうに立つ陽炎のような幻は、存在を認めはしてもその意思を傾ける相手ではないから。
「手が届くならば、支えてやる。俺は、いつだってそうしてきたつもりだが?」
捻くれた物言いはいつものこと。ほら、だから手の届くところに来い。そうすればお望みどおり、嫌だと言っても離さずに掴まえておいてやるから。
含ませた思いを、そして汲み取ることには既に慣れている。反応を示す前に一度、きょとんと瞬くのは彼女の癖だ。その時の表情がどこか間抜けで、けれど可愛いと思っていることは、告げたことがない。ただきっと、どうしようもなく嬉しそうに笑って重ねられた手を握りしめる力をうまく加減できないから、ばれているだろうとも思う。
惚れたきっかけなど覚えていない。気がつけば惚れていて、気がつけば求めていた。恋愛感情などそんなものだろうと思っているし、今のところそれでうまくいっているから、きっかけだの馴れ初めだのについて深く考えるつもりもない。ただ、この思いを前世だの輪廻だので説明されるのは不愉快だ。
掴んだ左手を引いて、細い体を腕の中に閉じ込める。頼まれなくても、誰が離したりするか。譲りはしない。見失いもしない。すり抜けさせたりなど、しない。
――ああ、そうだ。
ちらと持ち上げた視線の端で、重なり合った不可思議な空間に佇む銀杏色の着物の青年の口許が、すぅっと円弧を描くのがわかった。どうやら己にしか聞こえていないらしい声が、切なげに、満足げに、けれど確かな箴言として反響する。
――そうして、ちゃんと掴まえておけ。迷わせてしまっては、また、その心を崩壊させるだけだ。
そのまま流れるような所作で右足をわずかに引き、くるりと身を翻して青年は未練など微塵もなくどこかに歩み去っていく。
――矛盾はやがて、正される。その奔流の中でも、今度こそ……決して、手放すなよ。
ふと眩さを増した光に瞳を眇めた隙に、重なり合っていた世界はたったひとつのいつもの現実に戻っていた。それはきっと、落日の最後の輝き。ふつりと宵闇に満たされた祈りの間に、停滞していた事態の進展を告げる音が反響する。
Fin.