朔夜のうさぎは夢を見る

純化され過ぎた祈りの結末

 わずかに困惑する気配に乗って、降ってきたのは呆れをたっぷり詰め込んだ溜め息だった。
「お前がきっかけのひとつであることは、否定しない。だが、それがすべてではないと、前にも言ったと思うが?」
「知ってる」
 それが紛れもなく本心であることも。気遣いであり、矜持であることも。
「でも、それでも嫌だったのよ」
 ぐっと両手を握りしめ、噛み締めた唇を無理矢理に動かしては告白する。
「あなたを、見失っちゃうような気がして」
「見失う?」
 今度こそあからさまな困惑を篭めて問い返され、は小さく顎を引いた。


 知盛は刃から何かを読みとっているようだったが、にとってその対象は先日手にした紫水晶だった。白龍と景時の検分を経て害はないとのお墨付きをもらい、渡された際の言葉を信じて首から提げている。
 儚く脆い、触れれば溶けて消える淡雪のような白昼夢。だが、齎された感慨はそう簡単に消えたりしない。
 静かに、静かに。何かの折にふと湧きだす見知らぬ情動が、淀みのように胸にわだかまり、いつか自我を呑みこまれてしまいそうな恐怖を植え付ける。
 核に据えられているのは、終わらない悔悟。どうしてどうして、どうして。埒も明かない慚愧を抱え、引き返せない道をひたすらに呪う。
 ああすればよかった。こうすればよかったのか。どうすればよかったのだろう。どうしてそんなことに。
 ただ茫漠と振り返ることに意味がないことはわかっている。それでも、振り返らざるをえないのはそうしないと後悔に押し潰されて自我が崩壊する予感が消えないから。
 あの時も、あの時もそうだ。どうして自分は、いつもいつも、一番肝心なところで正解ではない道を選んでしまうのだろう。


 そうして誤ってしまった道の中で、けれどせめて正しくあろうとして、苦悶を噛み締めながら誠意を貫いたことも覚えている。最後には穏やかな心持ちであった記憶もあるし、最期の最後に届かない渇仰に焦がれたことも覚えている。
 すべてはもちろん、自身の記憶ではない。自身の過去を振り返るに、あれほど苛烈な感情を抱くような場面に遭遇したことなどなかったと断言できる。あのとてつもなく深い衝動に比べれば、今の自分の悩みのなんと矮小なことと、そう昏く嗤えてしまうほどに。
「それが、その新しい夢で得た感慨かい?」
「そう」
 ゆるりと、曖昧な情報の輪郭を浮き上がらせるようにして問いかけてきたヒノエに頷き、はとりとめない思考を振り払って己のいる現実へと立ち返る。
「見失って、間違って。その代償に、わたしはとても、とても重い何かを知ったわ」
 それを正しいと知り、けれど知りたくなどなかった終焉の形を。
 ぼんやりと紡いだ言葉に、さほどの根拠はなかった。ただ、向けられる視線に応えるようにして、するりと胸の奥からこぼれた見知らぬ思念。つと眇められたヒノエと敦盛の双眸に、は気付かない。


 ああ、それから、後は何が必要だろう。どんな情報を提供すれば、彼らは辿り着いてくれるだろう。
 八葉は切れ者ぞろい。策士である弁慶や還内府として戦略を練っていた将臣はもちろん、景時やヒノエの着眼点の鋭さを、は確かに『見知って』いた。敵味方に別れた双方を同時に見知っているという矛盾に、妙だと感じたのはごく一瞬のこと。それは些細なことだと囁く内心の声が、疑念をそっと、しかし容赦ない力で底に沈める。
「――叶うなら、償いたいの」
 紡がれたのは、吐息で蹴散らされてしまいそうな、儚いはかない願い。気づけば足を止めてそれぞれにを見つめていた三人が、そしてびくりと体を揺らしたのは場の空気の一切を無視した電子音ゆえに。まるで夢から醒めたように、遠く、静謐な祈りを滲ませたうつろな瞳が、はたと瞬いて焦点を結ぶ。


 電話の相手は望美だった。いわく、扉が開いたような気がするのだと。
 連絡を受けて迷宮へと踏み入れば、その予感が現実であったことはすぐに知れる。さらに重ねて問うてみれば、今回もまた、記憶に残らない放浪の向こうで謎の邂逅と“心のかけら”の入手を果たしたというではないか。
 同じように迷宮を探り、同じように扉に阻まれ、同じように引き返す。いつまでこれが繰り返されるのだろうと思い、もうじき終わるだろうと直観した。来た道を戻る中で、ふと振り仰いだ知盛の深紫の双眸が、ちらと見流したのは四隅の空。つられて視線を流してみれば、なるほど、残る塔はあと一ヶ所。
 それでもなお、有川家に戻って交換する情報は堂々巡りであり、結論は「迷宮の謎を解く」という一点にのみ無理やり落としこまれる。無論、それこそが何よりも確実な道であろう。そして、孕まれている可能性が未知数であればこそ、思案気な瞳がいくつもあるのだろうに。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。