霞のような記憶
ごくごく小さな声ではあったが、近くにいれば聞き取れる程度には、は知盛の声の単調さに慣れていた。戦闘音に紛れてしまいそうな低い声は、確かに「退いていろ」と紡いでいた。
「え?」
「お前もまた、忘れているのだろう?」
呟くように言い置いて、知盛はゆっくりと首を巡らせる。の見知っているはずの深紫の双眸に見慣れない昏い光を湛えて、知盛は自嘲とも郷愁ともつかない不可思議な微苦笑を刷く。
「退いていろ……。お前を、害させたりはしない」
傷口を押さえていたハンカチを握らせ、そのまま立ちあがる所作に淀みはない。唐突な変貌についていけないとは対照的に、警戒心を強めて見上げる弁慶の金茶の瞳をちらと見やってから、知盛は腰許に手をやる。
それは、何とも不思議な光景だった。確かにそこには何もないのに、耳に届くのは涼しげな鞘走りの音。しゃらりと響いた透明な音に続き、手の動きをなぞるようにして二振りの細身の刀が現れる。
「預けるぞ」
言って流された視線が示していたのは、いつの間にかのすぐ目の前に無造作に置かれていた二つの鞘。大きさからして恐らくは知盛が握る刀の対なのだろうが、絡操りが読めない以上、はひたすら混乱することしかできない。呆然と朱塗りのそれを見つめるの頭上で、だから知盛がそっと切なげに双眸を細めたことにも、気づけない。
部外者よりも自分達の関係者を守ることにこそ神経が割かれるのは当然のこと。まして、怨霊を封じることができるのは白龍の神子のみなのだ。なぜか怨霊と戦うことへの恐怖が勝ってしまい、封印のために五行を編みあげることができないらしい望美を庇いながら戦うことに集中すれば、どうしたって取りこぼしが出るのは仕方がない。その取りこぼしが、後方にいる力ない存在へと向かうのも。
「しまった!」
「弁慶、いったぞ!!」
切り捨てたはずの蔦が刃から跳ね返って宙へと踊り、そのまま耳元に風切音を残して後方に走るのを見やって将臣は盛大に舌打ちをこぼす。だが、その向こうには地の朱雀がいるはず。ちらと視線を流しながら声を張った九郎に「ナイスフォロー!」と返してさて、自分は目の前の敵にのみ集中しようと気持ちを切り替えたというのに、イレギュラーこそが背中から返される。
おぞましい奇声は構わない。それはもはや聞き慣れてきた、眼前の敵の上げる苦悶の悲鳴。だが、その悲鳴を上げさせたであろう気配が、ありえないのだ。
懐かしい、びりびりと肌を差す冷厳な殺意。たとえるのならば、きっとそれは凍れる焔。氷よりもなお冷たく、灰燼さえ許さない灼熱の炎。
戦闘のさなかに余計なことに気を取られるのはご法度だ。それはすなわち隙を生み、それはすなわち敗北を招く。そして、あの殺意の持ち主は、そんな将臣を助けてくれる理不尽な優しさを忘れたことがなくて。
「……気を、逸らすな」
うっかり振り返ってしまったその瞬間を逃さず、襲いかかってきた蔦は微塵の感慨もなく斬り捨てられる。その刃を閃かせた動きは淀みなく、流れるようにして前線へと駆け抜けるのは銀の獣。源平両軍にその勇名を轟かせた、平家一門が誇る軍神。
ありうべからず役者の登場に動揺するのは誰もが同じ。そんな動揺を押し隠して戦闘へと無理やり意識を切り替えられるだけの修羅場を潜り抜けてきたということも、同じ。
次々と襲いくる蔦をものともせずに弾き、時には肉を切らせることなぞ微塵も気にかけず、敵の本体にこそ牙を立てる。それは将臣の知るあの歪みに歪んだ戦闘狂でもあった“義弟”のスタイルそのものであり、危ういけれども効率の良い、紙一重の戦略。
さすがに不利と見てとったのか一撃を与えるだけで距離を置き、けれど知盛は微塵も怯まない。ようやく我に返り、知盛の開いた血路を無駄になどせず次々に攻撃を畳みかける様子をちらと見流し、再度刃を振りかざして敵へと向かう。
「望美! 封印、もう一度いけるか!?」
「やってみる!!」
たかが一人、されど一人。加えられた戦闘力に大いに助けられて敵の勢いを削ぐ中、唐突に現れた白龍の剣を手に、必死になって五行をかき集めることに集中していた望美に声をかける。
「巡れ、天の声! 響け、地の声!」
恐怖か、それともこの神の概念が薄くなった世界での封印はそれほどに望美の身に負担を強いるのか。聞いたこともない切実な声で文言を紡ぐのをどこかぼんやりと聞き、馴染み深い気配に揉まれながら将臣は戦闘に没頭する。
「彼のものを、封ぜよッ!!」
もしかしたら、この封印によってこの懐かしい時間は終わりを告げるのだろうかと。そんな馬鹿げたことを考えながら戦闘の終焉を厭う思いが生まれたことからは、ひたすらに目を逸らしていたかった。
Fin.