存在を許されなかった希求
寂れたと呼ぶには手入れの行き届いた、そこはこじんまりとした神の家だった。いざ辿り着いたところで入ってもいいものかと躊躇う将臣に、はくすりと笑声をこぼす。
「天の門は、万人に対して開かれているものよ」
「アンタ、意外とタフな人だよな」
「ありがとう」
言葉のとおり、敷地へ踏み入るための門に錠はかかっていなかった。軋んだ音を立てる柵の向こうに進めば、思わず背筋が伸びる錯覚に陥る。
「人が集うような教会だったら、この時間帯は御ミサをやっているはずだもの。人気がないなら、別に入っても平気でしょ」
「もしかして、クリスチャンなのか?」
「ちょっとした豆知識。敬虔さとは無縁よ」
手袋越しにも知れる、すっかり冷え切った真鍮の手すり。体重をかけるようにして押し開けば、蒼い夜闇に満たされた祈りの間が広がっている。
想像していたのは、降り注ぐ月明かりのごとき静寂。けれど反して二人を迎えたのは、低く響く歌声だった。外には一切漏れていなかったのにと、驚きを乗せた二対の視線がさまよった先には、けれど人影など見当たらない。
響き、反響が反響を呼んで音が重なりあい、わだかまる透明な気配に色を乗せていく。決して大きくはない声なのに、それは確かに響きあって、二人の足を縫いとめる。
「――'Tis grace hath brought me safe thus far, and grace will lead me home.」
そして、ふつりと言葉が切れた。あまりにも有名なメロディをあまりにも半端なところで断ち切って、神の家には奇跡が満ちる。音もなく壁際の燭台に蒼白い焔が走り、蒼黒の夜に、一層の深みを与えていく。
「待ちわびた……ぜ?」
声が、響く。歌を紡いでいたそれとは違う、けれど同一人物の声。
「いずこかの“お前”がいずこかの“俺”に与えた子守唄も、すっかり覚えてしまった」
笑いを仄かに滲ませた声が、椅子の列の谷間からゆるりと姿を現す。
「もっとも、」
眠れはしないがな。嘯く声は、将臣の悲鳴によって塗り潰されてなお、凛との鼓膜を打つ。
怯えるように、惑うように、全身を震わせて動けずにいるのは彼が既に失望を味わっているからだろう。その原因が自分達にあることを正しく理解していればこそ、申し訳なく思い、そして同じ思いを共有する。
アレは誰だ。いや、アレは“何”だ。気楽な調子で椅子の背もたれに腕を乗せ、上体を寄り掛からせて深紫の視線を向けてくる。その姿には、嫌というほど見覚えがあるはずなのに。
「かくも、怯えてくれるな……。どうせ、六花よりも儚い、うたかたの……幻、だ」
「………知盛、なの、か?」
「お前の求む、そのものではないがな」
お前が知ったアレよりは、幾分近い存在か。将臣の戸惑いに謎かけのような言葉を返し、ソレはひそりと微笑んだ。
「矛盾が許される時間は、限られている」
や将臣の反応など歯牙にもかけず、言いたいことだけを口にしながら、ゆるりと腕を差し伸べてソレは口の端を吊り上げる。
「異なれども同じ魂。同じなれど異なる世界に殺された、狂乱の夢見鳥」
同じようでいてまるで違う、深い深い紫水晶の視線が射抜いているのは、の双眸。あまりの力強さに気圧されて、けれど縫いつけられたように動けない足ゆえに逃げ出すこともできず、は謡いあげられる不可思議な言葉に絡めとられていく。
「現を侵蝕する夢を、お前は、許しはしないのだろう?」
誘うように揺らされた指先に、掴まれたのは一振りの小太刀。はっと息を呑む将臣を置き去りに、導かれるようにはふらと足を踏み出す。
「守りたいのなら、今一度、刀を手にするといい」
魂の底で、知らない声が咽び泣いているのをぼんやりと感じ取っている。
愛しい、哀しい、かなしい、切ない。焦がれて焦がれて、今にも迸りそうなのに、輪郭が曖昧なため爆発することもできない衝動。
「何もかもを斬り伏せて。切り捨て、振り払い、脱ぎ去り、置き去りに」
そしてお前は徨くのだろう。自分の手の届かない処へと、今生でも。
「扇を与え……それだけで、良かったんだがな」
寂しげに伏せられた瞳は、銀色の長い睫毛に隠されて、その表情を隠してしまう。
「辿り着き、そして、突き立てろ」
胸が切り裂かれるような渇仰に濡れた声を落として、ソレはふいと表情を削ぎ落として視線を持ち上げる。
「選べる道は、ただひとつ。矛盾が許される時間は、もうわずか」
告げる声は遠く高く、神託のように降り積もる。
「急げよ」
異なれども同じ魂の芽吹いた、この世界を。俺は、巻き込みたくなどないんだ。
ふと煙った深紫の瞳の奥の光に、方向性さえ見出せなかった衝動が堰を喰い破らんと四肢に満ちる。けれど、その衝動に突き動かされるようにして駆けよって指を伸べた先では、触れることは許さないとばかりに小太刀を残してソレが夜闇に掻き消える。
床に小太刀の落ちる硬質な音の残響が消える頃には、揺らめいていた蒼白の灯火もすっかり姿を消し、ただ美しい夜闇と静寂だけが満ちていた。
Fin.