朔夜のうさぎは夢を見る

存在を許されなかった希求

 卵をそっと机に置き、指についた殻の欠片を払い落とした指で少女は目尻を拭った。
「朔……」
「大丈夫よ」
 ジャガイモを茹でいてた鍋の番が終わったのだろう。あるいは、強制的に終わらせたのかもしれない。ガスのつまみをひねる音がして、キッチンから完全に場所を移すことにしたらしい譲が気遣わしげに朔の名を呼ぶ。
「大丈夫。ありがとう、譲殿」
 ほんのりと瞳を潤ませて、けれど顔を上げなおした朔の表情は実にすっきりしたものだった。
「お気を悪くさせてしまったら、ごめんなさいね。でも、ぜひとも言わせていただきたいことがあるの」
「聞こうか」
 瞳を細め、唇を弓なりに吊り上げて、朔は同性であるから見ても惚れ惚れするほどの笑みを浮かべて知盛の許容に対峙する。先までとあからさまに変わった気配に何を思ったのか、知盛もまた手を止めて体ごと朔に向き直る。
「あなたはあなただわ。でも、あなたもやっぱり、“知盛”殿なのね」
「………なんとも、微妙な感想だぞ」
「だから、先に謝ったでしょう?」


 ふふっ、と穏やかに笑みを滲ませた声はやわらかくて、彼女が髪に挿している花飾りのような愛らしさに満ちている。
「あなたは、今、幸せかしら?」
 そして、雪解けのような打ち解け方をみせた空気に舞うようにして投げかけられた問いに、知盛はいたずらげに頬に笑みを乗せる。
「不幸な要素が、どこにあるんだ?」
「難しい方」
「誉め言葉だな」
 場に満ちる穏やかな気配に、はそっと包丁を握りなおした。思いがけず知り合うことのできた相手と距離を縮められるだろうこのクリスマスパーティーは純粋に楽しみだったのだが、始まる前にこうも楽しみな要素が増えたのでは、調理の手に力が入るというもの。
 巡らせた視線のかち合った譲となんとなく笑いあい、は改めてまな板の上の鶏肉に向き直る。
 大丈夫。こうしてひとつずつ、見えないところで絡み合ってしまった紐を解いていけば、きっと自分達は向き合えるようになる。記憶を慈しみ、可能性を尊重しながら、新しい関係を築いて前に進んでいけるはずだ。


 ほどけてしまえば、もう難しいものなどない。買い物やら外出やらから戻るメンバーが、片っ端からキッチンに立つ知盛の姿に目を白黒させるのを笑いながら、は新しい友との時間を慈しむ。
 実にしっとりと落ち着いているためてっきり自分と同年代かと思いきや、あからさまに年下である朔に少し凹んだり、特殊な調味料など使っていないのに自分とは段違いの味付けを施す譲に感心したり。局所的に友好ムードが高まった状態でスタートを切ったクリスマスパーティーは、さらにアルコールの威力が加わって、もはや無礼講そのものだ。
 しかしなお、ぎこちなさを拭えずにいる瞳もある。彼らの知る“知盛”とは従弟にあたるという敦盛がどこかよそよそしいのは、そもそもの関係に血筋の違いによる上下関係が刷り込まれているという背景があることを聞いた。さらには、その“在り方”を“知盛”が好ましく思っておらず、それでも否定しきれずに葛藤していたということも。


 ぽつぽつと、ぎこちないながらも言葉を落とすのは紺碧の視線を力なく地面に落した青年。隣をのんびりと歩きながら、は手袋をしていてもかじかむ指先に、そっと息を吐きかける。
 アルコールもノンアルコールも、そこそこ以上に購入しておいたのに、既に底が見えはじめていた。買い出しに行くほどでもないだろうと有川家の食の司令官である譲は判断していたらしいが、そんな些細な状況も、見方を変えればこの上ない口実になる。
 実に器用に知盛のことを避けるくせに、気が気でないようで、ちらちらと達の様子をうかがう。が気付くのだから、気配に聡い他の面々が気付かないはずもない。
 実際にアルコールが回っている以上に顔が真っ赤になる性癖を知っている知盛が、に向かって「酔い覚ましを兼ねて、歩いてきたらどうだ?」と言い出した。すかさず弁慶が「ああ、いいですね」と頷き、見事な呼吸でヒノエが「でも、夜道に一人は危ないよ」と言葉を添える。さらに付け加えたのは、地の利をわかっている人間の方がいいだろうね、という暗黙の推薦文。
 鮮やかなお膳立てを遠慮するには、そしてもまた将臣の様子は気がかりだった。
 恐らく、この面子の中では最も重く深い傷を抱えている、優しい人。見知らぬ“己”の所業とはいえ、自分のせいで深く深く傷ついている様子は、見過ごすには重症に過ぎると感じていたのだ。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。