存在を許されなかった希求
名前からして源氏勢だと判断していたため、黒龍の神子という特殊な立場にあるため戦場に立っていたことも聞き知ってはいたが、朔と“知盛”に接点があったらしいことには軽く目を見開いていた。平家に与していたという将臣や平氏の血を持つ敦盛が語るならともかく、まさか朔の口から風評以外の“知盛”像が飛び出してくるとは思いもしなかったのだ。
何事もなかったようにたまねぎの皮をむく作業に戻ってはいたが、知盛から話を拒絶する気配は滲んでいない。むしろ、さほど気にはしないから気が済むように語ってみろと、無言で告げているのがわかる、あたたかな空気だ。
「私が知っているのは、本当に、ごく限られた側面でしかないけれど」
ゆったりと、声がなぞるのはの知らない過去。彼らが重ね見ては恋焦がれる、失われてしまった幻想の姿。
「かなしい方だった」
強く、聡明で、美しい。何もかもを兼ね備えていると、そう謳われる方だったのよ。軍での噂からは、それはもう恐ろしい方だと思っていたけれど、お会いした印象は違っていたの。血の香ばかりが滲む物騒な方なのかと思っていたのに、本当に、すべてが洗練された公達でいらっしゃったわ。
「なのに、知盛殿はおっしゃったのよ」
軍場の外に、居場所はないのだと。
いつしか手を止めて朔の独白にも似た言葉に聞き入っている自分に気づき、はそっと包丁をまな板に置いた。この空気を壊してはならないと、そう思ったのだ。
震える声は切なく悲しく、垣間見てしまった姿によって彼女が浅からぬ傷を抱えていることを雄弁に訴えかける。
「お前達の世界で、どのような歴史が刻まれたのかは、俺にはわからない」
もぞもぞとたまねぎをむきながら、知盛は声を詰まらせてしまった朔の生んだ沈黙を、気負った気配など微塵もなく埋めていく。
「だが、“平知盛”がそういう役回りだったんだろうという想像は、つく」
「……どうして?」
「貴族化した平家一門にあって、一種異様なほどの武の者。武将としての才覚にも恵まれ、総領たる実兄に比べて一族からの期待も大きく、それに応える実力もあった」
そして、平家一門の最期の幕引きを、正しく見据えていた。
「脚色は大いにあるだろうがな。それでも、多少なりとも事実が存在しなければ、平家物語がこれほど長く語り継がれることはなかっただろうし、資料としての価値を与えられることもなかったはずだ」
だからそうなんだろうと予測した。実に端的に言葉を切り、知盛は皮をむき終えた手を拭いて包丁を手にする。
「お前達の言う“平知盛”が同じような存在だったなら、戦場以外に居場所がないというのは、まあ自然なことだろう」
たんたん、とリズミカルにたまねぎを刻む手許に狂いは生じない。言葉の不穏さと描く光景の平穏さの不可思議な対比がなぜかしっくり同居しているこの矛盾は、どこで整合性をとっているのだろう。
「戦乱の終結には……象徴が、必要だ」
朔が息を呑み、弾かれたように視線を跳ね上げる。
かたかた震える指の中で、くしゃりと小さな音が響く。握られていた卵の殻が砕けたのだろう。それほどに衝撃的な発言だっただろうかと思い、きっとそれが、自分達の知らない“知盛”の残した傷のひとつなのだろうと思った。
「今の時代とお前達の生きている時代とでは、あまりにも名前の持つ重みが違いすぎる」
縋るように見つめる朔の漆黒の視線の先で、知盛は顔を上げようともせずに包丁を操る。
「個としての存在は許されず、公としての在り方が求められる。ならば、己という殻を客観的に認識して、自分の能力を客観的に把握しているヤツほど貧乏くじを引くのは仕方ない」
「あなたは、」
掠れた声が、言葉の切れ目を縫うようにして細く細く問いかける。
「あなたなら、どうなさる? あなたならば、同じように、終わりを引き受けるの?」
問うてどうする。そう思う気持ちと、問わざるをえないのだろうという納得とが、静かに溶け合っての胸に沈む。関わってしまったものほど、齟齬を見せ付けられて苦しんでいる。だから、違うなら違うのだと、それを改めて認識する儀式が必要なのだ。今の朔のように。
「まさか」
そして返されたのは、あまりにもあっけらかんとした明快な否定の言葉。嗤うよりは穏やかに、けれど決して笑みを滲ませたわけではない声で、知盛は朔の驚愕を振り返る。
「もちろん、状況によりけり、という制約はあるだろうがな。そう易々と人生を投げ出せるほど、俺は諦めのいい人間じゃない」
唖然と向けられた双眸を見つめ返し、それからを視線で示す。
「終わりなんか引き受けたら、そいつを見失うじゃないか」
そんなの、理不尽極まりない。さらりと放たれたとんでもない殺し文句に、間を置いてから朔はくしゃりと表情を歪める。
Fin.