朔夜のうさぎは夢を見る

霞のような記憶

 二人が石畳を踏む足音だけが響く空間は、息苦しいほどの静寂に包まれている。鼓動の音さえ聞こえそうだと思って小さく苦笑を滲ませた吐息を洩らしたのは、徐々に感覚が麻痺してきた証拠。油断が許される保証はないと、わかっていたはずなのに。
「――ッ!」
「平良くんッ!?」
 容赦ない強さで体を後方に押しやられ、尻餅をつきながらが見上げた先では紅い液体が宙を舞う。鋭く息を呑む音に、バランスを崩したのか、そのまま地面に倒れ込む音が続く。
 慌てて体を起して器用にも上体を起こしたままの知盛に駆け寄ったが、混乱に呑みこまれた思考回路は言語中枢をまっとうに動かすこともできなければ、反射的な行動を選びとることもできない。眉間に深く皺を刻み、左手で強く握りしめられた右の二の腕からは、だらだらと血が伝って地面に水溜りを作る。
 止血をしないと、ああでも、それよりもこの場から逃れる方が先か。いや、敵を見極めないと。逃れられるか。違う、そうではない。そうではなくて、自分にはもっと他にできることがあるはずで。
 様々な思索が脳裏を埋め尽くし、体を縛り付ける。そして、当人である知盛はよりもよほど冷静だった。
「呆けるな! 逃げるぞッ!!」
 ちらと前方に視線を投げて腰を持ち上げ、へたりこんだままのを引っ張り上げようと腕を伸ばす。だが、血に濡れた指先はに届くよりも先に、ぐらりと上体の揺れた知盛自身のこめかみに添えられる。


 あっという間に血の気を引かせた横顔が歪み、膝をつきなおすことで座ったままだったの視界に入った額には冷や汗が浮いていた。
「だ、大丈夫!?」
 ようやく口をついた言葉があまりにも間抜けで、自嘲と自責の念が胸を締め付ける。だが、そんな悠長なことを考えている時間さえ惜しまれる。
 尻餅をついた際に中身が飛び散ってしまっていたハンドバッグの中身から、運良く手近に転がっていたハンカチを拾って傷口を押さえてやる。それを自分で押さえる手の動きを確認してから、痛みにかそれ以外の要因もあるのか、苦しげに呻きながらも油断なく警戒する深紫の視線が見据える先へと、視点を転じる。
 扉の歴史を伝えるものかと勝手に判断していた表面を這う蔦が、不気味に蠢きながら自分達をうかがっているのがわかる。植物がああして自立して動くというだけでも映画の世界だというのに、いつの間に変じたのか、色味さえが異様だ。
「何、アレ」
「まるで、B級映画のモンスターだな」
 震える声で答を得られないとわかっている問いを紡げば、感慨の薄い声が冷やかに吐き捨てる。
「随分な歓迎の仕方だ」
 皮肉気な物言いはいつものこと。だが、声の冷たさが知盛の心中を物語る。不愉快だと、面白くないと。じとと睨みつける視線がもしもその強さを攻撃とすることができるならば、きっと今頃あの忌々しい蔦は微塵に切り刻まれていることだろう。


 とはいえ、には戦う術がなく、どうやら裂傷以上のダメージを受けたらしい知盛は、先ほどから腰を浮かそうとしては地に沈むという動きを繰り返している。血を吸ったハンカチはすっかりぐしょぐしょになっており、冷汗は頬を伝い呼吸も心なしか荒くなっているようだ。
 均衡が保たれているのは、決して自分達の実力ゆえではない。相手が、こちらの出方をうかがっているがゆえのものだ。いつ破られるとも知れない、そして破られたが最後とわかっているこの束の間の時間にできることは何か。
 空回りするばかりの思考回路を必死に回しながらも縋る指の強さを弱めることのできないは、じっと前を見据えるばかりだった知盛が、ぴくりと動いてちらと後方に視線を流すのを視界の隅に捉える。同時に、耳朶を打つのはいくつもの足音と、人が話す声。
「怨霊か!?」
「違う、人だ」
「巻き込まれたということでしょうね」
 明瞭に言葉の聞き取れた順に、左右を割って達の前方に入り込んだのはそのうち二つの人影。橙色の長い髪を高くポニーテールにした青年は日本刀を構えているし、その隣に立つ金髪の男は両手に湾曲した刀をそれぞれ。最後の声の主は金茶の長い髪を背に流した優男で、と知盛を覗き込むようにしゃがみこみ、大きく目を見開いて息を呑む。
「あなた達は――」
 言いさした言葉の先が、何を紡ぎたかったのかはわからない。ただ、その続きは切って落とされた戦闘の火蓋によって閉ざされる。


 今度こそ明瞭に敵であると認識したのだろう。次々に襲いくる蔦を捌きながら、青年が視線を寄越さないままに声を張る。
「弁慶、早くその二人をつれて下がれ!」
「神子達にも連絡はしている。ここは、九郎と私で抑えよう」
 同じく前を向いたまま、乱舞する蔦を切り落としながら金髪の男が追随すれば、はたと我に返った様子で弁慶と呼ばれた優男が「ええ」と硬い声を絞り出す。
「さあ、お聞きになられたとおりです。ここはあの二人が抑えますので、あなた方は早く安全な場所に」
 ひとつ息を吸い、差し向けられた声は穏やかだった。人を安心させる声だな、と思い、つられてうっかり肩の力の抜けたは、正体もわからない相手にしかし頼ることを選ぶ。人選はよくわからないが、追加メンバーが次々に到着して戦闘に加わっているのだ。少しばかり問答を重ねるゆとりはあるだろう。
「どうすればここから抜け出せるか、わからないんです」
 そもそも、わかっていればあんな化け物に遭遇するよりも先にここを抜け出している。唐突に現れたからには彼らは抜けだす方法を知っているのだろうと思ったのに、返した言葉に与えられたのは、ひどく面食らった表情。
「出られないんですか?」
「あなた達は、わかっていて来たんじゃないんですか?」
 つい詰るような口調になってしまったことを悔やみながらも言い返したは、弁慶を通り越してじっと戦闘を見つめていたらしい知盛の小さな声を拾う。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。