朔夜のうさぎは夢を見る

霞のような記憶

「バイト代が入るだろう?」
「時給が違うの。あなたと一緒にしないで」
 笑う知盛の声は、憎らしいほどに楽しげだ。だが、一介の学生にできるアルバイトなど、その給与枠の高は知れているのが現状。薬学部生であり、さらには飛び級をして国家試験もパス済みという意外な能力値の高さをさんざんに見せつける知盛のような、時給も待遇もおいしいバイトになどありつけるはずがないのだ。
「多少は出すと言ったじゃないか」
「そういう甘え方は嫌いよ。金銭トラブルの火種は、絶対に作らないのが信条なの」
「律儀なことだ」
「がめついって言ってくれてもいいのよ?」
 石畳を歩きながら、ちらと見上げれば言葉遊びとは裏腹の、実に穏やかな光に凪いだ深紫の双眸がじっとを器用に見つめているのとかち合う。
「いや? お前の律儀さは、嫌じゃないさ」
 そう、ゆるく眦を和ませて口の端を持ち上げると、知盛の美貌がいっそうの輝きを増すとは評価している。女などより取り見取り、恋愛遍歴の華やかさは有名な噂らしいのだが、そんな男がなぜ自分のような平均値を地でいく人間を傍らに置きたいと思ったのか、根拠などわかるはずもない。わかるはずもないが、惚れた弱みは確かに存在する。
 できれば長くこのポジションにあり続けたいと願うという下心もあって、は恋人という枠にしては随分とかっちりした諸々の線引きを遵守している。そして無論、そんなことは告げるつもりもないし、どうせこの男のこと。すべてを察しているのだろうけど。


 クリスマスシーズンとはいえ、さすがに国内でも有数の観光地には人がそれなりに溢れている。ツアー客の脇をすり抜け、境内をゆっくりと進むものの、求めるものに繋がりそうなヒントは何もない。
 これはやはり、知盛の言う通りこの程度の歴史では足りなかったのかと、そんなことを思っていたからか。
 何か、自分が普段は決して踏み越えることのない一線を踏み越えたことに、気づくのが遅れた。
「――止まれ」
「え?」
 唐突に腕を掴まれ、くいと引かれながらの指示をいぶかしみながらも足を止めて振り仰げば、険しい表情で前方を睨みつけている横顔。初めて目にする知盛の厳しい双眸に驚いてきょろきょろとあたりを見回せば、その警戒に強く同調せざるをえない。
「……何、ここ」
 溢れていたはずの人影が見当たらない。わだかまっていたはずの喧噪が存在しない。しんと静まり返った人気のない境内に、そして異様な建造物が聳え立っている。
「妙な気配なんて、何もなかったのに」
 訳がわからなくて、掴まれた腕をとり返しながら逆に知盛の腕に縋りつく。指先が冷え、嫌な汗を掻いている。変に冷静な脳裏を神隠しという単語がよぎるが、あまりに悪趣味な冗談は声に出すことが憚られる。


 雪でも降りだしそうだった鈍い灰色の空が、いつしか冬晴れの薄蒼に変じている。からりと乾いた風のにおいが、違う。
 縋る指を受け入れ、庇うように体を引き寄せて周囲をじっと睨み据えていた知盛が、ふと体の強張りを弛めて視線を落とした。
「お前、この手の現象にも経験があるのか?」
「ないわ、こんなの。わたしはせいぜい、夢を見るだけよ」
 唐突な問いには、間髪置かない否定を。だいたい、今回のような日常から乖離した夢は初めて見たのだ。それだけでも混乱しているというのに、こんないらない要素の追加を求めるわけもない。
「どうしよう。どうすれば抜け出せるのかしら」
「そんなこと、俺にわかるはずもないが」
 言いさして再度持ち上げられた視線が、ひたと前方の違和感に据えられる。
「とりあえず、あそこまで行ってみるというのはどうだ?」
「賛成」
 この空間が異様であるという事実と共に、認識される異物は聳え立つ扉しかない。和の様式で統一されているはずの境内に堂々と存在感を放つ、両開きの扉。無論、その向こうが己の戻りたい空間に繋がっているという保証など、どこにもないのだが。


 もっとも、そろそろと進むだけという可愛気を持ち合わせていないのが知盛という人物であり、独りになりたくないという恐怖心こそが最も強いは迷いのない足取りに引きずられるようにして重い足を運ぶ。近づけば近づくほど、細かな装飾の施された扉の仔細が明らかになり、そして指先が冷えていく。
「怖いのか?」
「わからない」
 冷え、震えの止まらない指の状態など、知盛には筒抜けである。ふと足を止めて問われても、には正体の掴めない己が内心に困惑することしかできない。
「わからないの。何か嫌な感じがするんだけど、それだけじゃなくて」
 滲む、とでも表せばいいのだろうか。近づけば近づくほど、何か嫌な予感が心臓を蹴り飛ばす。けれど、同時に心臓が別の鼓動に跳ねているのも感じている。辿り着きたくて、辿り着きたくなくて。矛盾する思いに急かされながら、けれど目指す先などそこしかなくて。
 しばし無言で葛藤するのつむじを見下ろしていた知盛は、そのまま小さく「行かざるを得ないだろう」と呟く。
「妙な感触、というのには同意するがな」
「何か感じる?」
「あまり、心地良い類のものではない」
 だが、それだけだ。言い置くというよりも言い捨てるに近い語調は、知盛がこの不可思議に苛立っていることを何よりも雄弁に物語る。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。