朔夜のうさぎは夢を見る

触れられない未来の記憶

 不確かな情報は不用意に漏らさない方がいい。そう意見を一致させたリビングから足音も気配もなく距離を置きながら、知盛はそっと息を吐き出した。気配を消すことは造作もなく、足音は意識せずともろくに立ちはしない。その状態がこれまでの自分とどう違うのかなど、知る由もなかったが。
 戻った和室では、眉間に浅く皺を寄せて、が静かに寝息を立てていた。横になって蒸しタオルを瞼に当てているうちに、気が抜けでもしたのだろう。枕をいたずらに濡らしていたタオルを返そうと思っていたのだが、結局声をかけることは憚られ、こうして持ち帰ることになっている。


 目覚めは最悪だったと言っていい。夢見も悪いし、意識が落ちる寸前の記憶も最低。戦う術のない彼女に、なぜだか戦う術を『思い出して』しまった自分。ならば、守るのは“今度こそ”自分の役目だと思った。だというのに、肝心の場面で、命を守られたのは自分の方だった。
「情けないことだ」
 日が落ちてしまったため真っ暗な室内で、枕辺に膝を落として知盛は小さく呟く。
「力が……欲しい、な」
 彼女を守ってやれればいい。余力があれば、あの、絶望にばかり染まる紺碧の双眸を少しは慰めてやれるかもしれない。わけのわからない非日常などさっさと斬り伏せてしまえるし、彼女の存在自体を脅かすという不可思議など、容赦なく薙ぎ払うこともできるのに。
 わずかに悩んでから、タオルは胡坐をかいた膝の上に置いておいた。そのまま指を伸ばし、眠る額に張り付いている黒髪をそっと払いのける。
 いつか、どこかでこんなことをしていたような気がした。
 いつか、どこかでこんなことができればと願ったような気がした。
 その似て非なる感情は夢の産物だと知っていたし、自分は願うのでもなく不確かな記憶でもなく、現実として思ったことを実行しているだけだと、知っていた。
 魂に息づく何かによっていつか存在を焼かれるのだとすれば、この不可思議な感慨もまた同じだろうと思う。牙を研ぎ、あぎとを開けて待っているのではない。憐憫を帯びた瞳で、堕ちていく様を静かに見やっているだけで。
「譲りは、しない」
 宣戦布告は、低く、しかし確実に。剣呑に双眸を眇めて、見据えるは己が内に巣食う恐怖。得体の知れない夢想の正体を突き詰めることにかまけるほど、知盛はもの好きでもなければ気が長くもない。そんなものはすべて空虚な幻想。そう断じて振り払うことを選べばこそ、抗う相手はただ自分自身。
 しんと静まり返ったはずの部屋で鼓膜を揺らした気のする遠い笑声には、意識を割くことさえ惜しまれるのだ。


 すっかり夜と呼べる時間になってからようやくきちんと目を覚ましたは、自分が何をしたのかをぼんやりとしか覚えていなかった。もう遅いからと夕食を勧められ、ちゃっかり回復したらしい知盛と並んでプロ顔負けの譲の手料理に目を円くしてから、記憶を手繰りよせるようにしてぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「何かを呑んだのは覚えているわ」
 呑んだというか、呑ませたというか。目の前に広がる現実を拒絶する思いが沸騰したのは覚えている。それで頭が真っ白になり、怒りと憎しみが理性を焼き切り、けれどそれまでだ。
「とんでもないことをやらかした、というのはわかるけれど、細かいことは覚えていないの。制御がきかなくなって、それを誰かに宥めてもらったんだけど」
 あれは、あなた達じゃないの。そう逆に問い返されても、誰も該当しないのだから揃って首を傾げることしかできない。
「何でもいいよ。他に、覚えていることはないかい?」
 ただ、そうして疑問を重ねるだけでは話が進まない。すっかり慣れた様子でカップを優雅に傾けて、ヒノエがそっと問い返す。
「その誰か、とやらに感じたことはない? 男か女か、老いていたか幼かったか。もしくは――ヒトか、カミか」
 さりげなく混ぜ込まれた核心に、気づいたものは少なくなかったが、あえて指摘するものは誰もいなかった。じっと息を殺して返答を待たれている様子に僅かばかり目をしばたかせて、けれどには言葉を呑みこむ根拠がない。
「強いて言うなら、神様に近いのかしら。浮世離れしているって言えばいいの? とても、遠くて切ない雰囲気だったわ」
「切ない?」
 思いがけない手応えと形容に、復唱したのは神なる存在。こてんと首を傾ける仕草はとてもではないが人外のそれとは思えなくて、つい苦笑しながらは頷いた。
「すべてがすべて、とは言わないわ。これは、わたしの勝手なイメージだから」
 でもね、と。片仮名の意味を手近な現代人から説明されている様子を見ながら、は言葉を繋げる。
「切り離された時間を独りで過ごさなきゃいけないなんて、切ないことだとしか思えないもの」
 それは、告げることの残酷さを知らないがゆえの、聞く者によっては何よりも痛烈な皮肉でしかない率直な感慨だった。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。