記憶にいない君との思い出
知盛がひどく苦い表情で「やめておけ」と訴える視線を向けてくるのは感じていたが、あいにく、には完全に手を引くには少しばかり気にかかるものがあった。
「ううん。あの扉は、時空を繋ぐ扉ではないよ」
「じゃあ、あの向こうには何があるの?」
「それは、僕達にもわかりません」
答えたのは時空を繋ぐ力を持つという神であり、穏やかな表情を取り繕った弁慶。
「でも、あそこに怨霊が出たっていうことは、あの向こうには何か、龍脈の乱れの原因を探るヒントがあるはずなんです」
そして、この段になってようやく口を挟んできた、恐らくは当事者の中でも最も中枢に君臨するだろう、神の力を宿した人の子。
見据える瞳はまっすぐで、迷いがない分、曇りがない。清濁併せ呑んだのとは違う。それは、迷うことをまだ己の核に据えられていないがゆえの、無垢な強さ。若いな、と、胸をよぎった感想は、この場にふさわしくないので口にしない。
あの夢で、は確かに神の存在を感じていた。仔細は覚えていない。同時に、感覚は決して完全に拭い去られてもいない。だが、あの感じていた気配は目の前に座る神なる存在と合致しない。考えるまでもなく、今日の鎌倉散策の目的はいまだ達成されておらず、そして思いがけないヒントを手にしたかもしれないのが今の状況なのだ。
幸いなのか不幸なのか、先ほどの知盛と弁慶の問答が与えてくれた時間は、が考えを最低限に纏めるのに十分な空白だった。矛盾も疑問も山のように残っているが、突き詰めてしまった向こうで残っているものが求めるものは、既に確信できている。
「わたし達に聞きたかったことっていうのは、さっきの名前のこと?」
「それもありますが、あの空間に巻き込まれた原因について、何か思い当たる節がおありならば、と思いまして」
「原因には思い当たらないけれど、あそこにいたのは偶然じゃないわ」
「……おい」
問答を続ける意思から、ターゲットを切り替えることにしたのだろう。上体ごと向きなおる弁慶をひたと見据えて応じれば、不機嫌そうに知盛が声を差しはさむ。
「お前、関わるつもりか?」
「だって、無関係とはいえないじゃない」
声は不機嫌そのものという色味をみせているが、向けられる視線を見返せば知盛の気遣いが知れる。案じてもらえるのは素直に嬉しいのだが、しかしも譲れないものがある。
そう、きっと偶然ではない。あの場にいたことと、あの不可思議に巻き込まれたことは、偶然が折り重なったがゆえの結果ではなく、きっと必然だ。根拠のない思いつきであったが、外れてはいないだろうという確信があった。
「もしかしたら、この人達の言ってる龍脈の乱れが、あの夢の原因かもしれないし」
だとしたら、としてはその解決のために手を貸すのはやぶさかではない。このままでは元の世界に帰れない彼らとは切実さの意味で重みがだいぶ異なるだろうが、利害の一致による協力関係という事実に変わりはないだろう。それに、この得体の知れなさを放置しておいては、また同じ轍を踏むかもしれないという恐怖もある。
揺らぐ視線が流れた先は、知盛の足元に置かれた紙袋。血濡れの上着では悪目立ちするからと替えを借り、脱いだものを持ち帰るために貸してもらった、それ。視線の先を目敏く察したのだろう、苦く歪んだ表情で「気にするなと言っただろ?」と諭す声は、同時に諦めが滲んでいる。
まただ、と。思いはしても、どうにもできない。こうして甘やかしてくれる優しさはありがたいが、このままでは巻き込んでしまいかねない。そのまま、が飛び込むことを見送るだけで終わらせてしまおうと思って無理やり視線を振り払えば、待ち構えていたかのタイミングで弁慶が問いを投げかける。
「夢、というのは?」
「今日、わたし達があそこにいたきっかけ。不思議な夢を見てね。原因はお寺とか神社とかにありそうな気がしたから、何かヒントはないかと思ってうろうろしてたの」
「へぇ。アンタは夢占ができるのかい?」
「占うというほどでもないけど、夢が現実にも意味を持つのは、昔からだったから」
興味深げにくるりと瞬き、口を挟んできたヒノエは返された言葉に薄く笑う。
「だったら、無関係じゃないってのは良い勘だよ。アンタが将臣のいう姫君かどうかはともかくとして、導かれたんなら何がしかの縁があるってことだ」
不思議に説得力のある物言いは、彼が龍神にまつわる役者の一人だからなのか、元からのものなのか。いずれにせよ、偶然ではなかろうという漠然とした勘を後押しされた事実に違いはない。
「アンタも、わかってるんだろ? 足掻くだけ無駄なんだから、諦めるんだね」
そして、謡うように告げられるのは神託にも似た言葉。笑みに揺らぐ声が差し向けられたのはの隣で苦虫を噛み潰した表情を隠しもしない知盛。
「世界の齎すしがらみは、天命。それは、どうしようもない世界の理と同じなんだよ」
Fin.