朔夜のうさぎは夢を見る

記憶にいない君との思い出

 時代を超えただの実は平安時代で武士をやっていましただのと言われても、まるで実感は湧かない。ただ、その瞳は本物だと、そう直感した。
 射抜く視線は重く、深く、底抜けに昏い。少なくとも、の人生の中では遭遇したことのない光の種類に、ああ、この人はこの世界ではないどこか別の場所で、見知ることのないはずだった何かを見知ったのだろうと、知る。
「八幡宮の境内で、あの空間に巻き込まれているのはアンタ達だけだった。他の観光客とかにはまるで気づかれてさえいなかったのに、アンタ達は当事者になったんだ。これはもう、関係ないとは言えねぇだろ?」
 指摘はもっとも。返す言葉はなく、けれどただ認めてしまうにはまだは己の中で考えをまとめ切れていない。
「頼む。わかってて白を切ってるっていうなら、諦めてくれ」
 なるべく迷惑はかけないようにするから。続けられたのは、まったくもって不可思議な説得。まるで予想外の展開にいったい何を言い出すのかと目を見開くに、将臣は別の思惑を読みとったらしい。一層の切実さを増して、身を乗り出して知盛ととに、乞う。
「胡蝶さんと、知盛だろ?」
 震える声は、郷愁に焦がれて切なく宙に霧散する。


 そういえば名乗っていなかったかと、この段になって思い至ったのはどうしようもないことだろう。まるで旧知の相手であるかのように振る舞う彼らは、達に名乗りを要求しなかった。とんでもない名前のオンパレードを前に自分から告げるのを忘れていたのは確かにの落ち度であろうが、気にされなかったのだから、気を回せと言われても困る。
 その名の相手を求めている思いは、痛いほどに伝わってくる。いったいどんな経緯があったかは知らないが、よほど辛い別れを経ているのだろう。否定など認めないと雄弁に訴える紺碧の双眸に、しかし絆されかけたのはだけであったらしい。
「確かに、俺は“知盛”という名前だがな。こいつはそんな名前じゃないし、そもそも、お前達とは今日が初対面だ」
 冷厳さこそが慈悲であるとでもいうのか、応じる知盛の声はにべもない。縋りつけるだけの隙や可能性は微塵も残さず、ばっさりと切って捨てた横顔は無表情。
「巻き込まれたからには当事者だと、その理屈は理解した。現に、俺はあんな物騒なものは初めて手にしたからな」
 知盛とは対照的に、突きつけられた言葉を認められなかったのだろう。表情がそぎ落とされた将臣が我に返って何か言葉を言い募るよりも先に、淡々とした声が把握した限りの状況を紡ぎあげる。
「お前達の言い分をすべて肯定すれば、筋は通る。だからといって、この先も巻き込まれるかどうかは、別の話だ」
「自分達は部外者であると、そうおっしゃりたいんですか?」
「世界を繋ぐ扉など、俺達には関係ない」
 関係もないもののために、なぜ当事者になるというのか。薄く吊り上げられた口の端が物語る言葉にされなかった揶揄を正確にくみ取ったらしく、弁慶の秀麗な眉がぴくりと跳ねる。


 ぴりぴりと張りつめた、どこか険悪な空気が流れる中での視線はふらりとさまよい、先ほど知盛が“物騒なもの”と称した二振りの刀へと行き着いた。朱塗りの鞘の美しい、磨き上げられた曇りなき刃。宝物展にでも行かなければお目にかかれない造形美が示した殺傷能力の高さは、あの混乱のさなかでも存分に見て取れた。
 美しかったと、そう思う。場違いなことだろうし、罰当たりなことだろう。だが、確かに美しかったのだ。双太刀を自在に操り、鮮血を撒き散らしながら殺意を纏って立ち回る姿には息が止まった。理不尽なまでの絶対的な美は、矛盾の向こうにこそあるとでもいうかのように。
 完全に突っぱねることは無理だろう。それはきっと、知盛も理解しているはずだ。だって、あの双太刀の出現も、あの動きも、すべては二人の知る日常ではなかった。知らない日常に触れ、その只中に踏み入り、その片鱗を持ち帰ってしまった以上、当事者は当事者だ。ただ、その後の関わり方をどうするかに、まだ選択の余地が残されているかもしれないだけで。
「あの扉は、あなた達の求める扉じゃないの?」
 不穏な沈黙を気にした風もなく、の声は実にいつも通りの響きを保っていた。丁寧語にし損ねたな、と思い、まあいいかと思いなおす。この先、丁寧語を保っていて煩わしく思うのはきっと遠からぬ未来だ。
 存在を忘れてでもいたのか、はっとした風情で向かってくるいくつもの視線に、ゆっくりと振り返って小さく首をかしげる。
「あの向こうが、戻りたい世界なの?」
 それなのに、ああして扉の向こうへと行くことを阻むものがあって、それゆえに困っているのだろうか。それとも、あの扉はまったく違うものなのだろうか。そもそもの判断さえ下せない以上、それこそ事情をよく知っている当事者に問うことしかできない。

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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。