月のない夜 --- 中編
もっとも、そんな嫌味にたやすく屈するようなかわいげがあるなら、今頃もっと別の道を行っているだろう。ほどなく送りつけられた返事は、じゃあ連れていくから直接話してみろ、というもの。ついでに自分も行くから、細かい話はその時に、と。
熊野を守り、かつ交渉の仲立ちをすればこれまで以上の存在感を示せる。それは絶好の機会。熊野を預かる別当としてはぜひとも実現させたいし、単なる空言と切り捨てるには、今の平家は力がありすぎる。
探る限りでは、水面下での動きも見事。政局を左右しうる有力貴族との関係は、秘められたものながらもいまだ健在。朝廷を追放されたくせに院にさえ繋がりを保つ手腕は、さすがの切れ者中納言といったところか。鎌倉への過剰な警戒ぶりは腑に落ちない部分もあったが、あくまで自分の理屈を押し付けずに最終判断を投げるあたりはヒノエの知る、そして噂にあるとおりの姿。
最新の打診は月天将の捕縛の後にしたためられたものだろうに、微塵の揺らぎもみせないのは嫡流としての意地だろう。私人としてではなく、肩書のために在る者として。なすべきことをわかっており、そのために切り捨てるものをわかっている。
難儀なこと。素直に、そう思う。
治天の君のお気に入りであり、当人の実力も広く知れている。落日の一門を見限って生きる道を選んだとて、誰も彼を責めたりはしないだろうに。
ヒノエの立場にしてみても、おもねるというのなら受け入れてみたい。厄介な性格とは知っているが、それ以上に、その能力の高さは魅力的だ。そして、彼は彼の一門を守るためにこそその能力を発揮するのだとも知っている。それこそヒノエの行動の原点と通ずるものだから、なんとなく、しかしよくわかるのだ。
権勢に執着のない姿は、ともすればそしりの対象であるらしいが、ならば彼を理解し、その思惑の全容を知るものはいないのだろうか。
一時の華やぎではなく、永の安寧を。
かつて己が一族の隆盛を欠けることなき望月と喩えた左大臣、藤原道長を頂点に花開いた藤原氏のように、磐石な縁戚関係を背景としたわけでもない栄華を謳歌した一門にとって、その可能性を手繰り寄せることがどれほど困難なことか、ヒノエは重々承知している。まして、平家追討の令旨を掲げて攻勢を仕掛ける源氏勢に対抗する筆頭の武将としての華々しくも堅実な働きの裏で、だ。いくら総指揮を執るのが還内府であっても、生きている嫡流としては最年長の息子。それだけでも、目が回るほどの忙しさだろうに。
誰にも理解されないまま独りで戦っていると言われても納得してしまうし、手勢がいたとしてもわずかだろうことは明白だった。候補としては、実弟である重衡、穏健派として知られる経正、そして一門においてとみに結束の固さとその心酔ぶりが有名な彼自身の郎党達。
中でも実戦力の筆頭は、乳兄弟である家長と月天将だろう。特に後者は、傑出した剣士としての実力の反面、顔を知られておらず、女であるという隠れ蓑さえある。隠密活動にいかに重用されていたかは、推して知るべし。口の堅さはあの弁慶をして敬服に値すると言わしめたのだから。
「頭領、お呼びと聞きましたが?」
つらつらと物思いに耽っていたところに掛けられた声に、ヒノエははたと瞬いてから部屋の外に畏まっている烏を振り返る。振り返り、手元に目を落とし、そこでようやく自分がしたためた文を送るための手を必要としていたことを思い出す。
「ああ、呼んだよ。ちょっと福原まで頼まれて欲しくてね」
「……かの御仁ですか」
「今からだと、行き違いになるかもしれないけどね。返さなかったら返さなかったで、皮肉がうるさい奴だからさ」
伏せられた名前は、正しく双方の間で了解されている。そも、情勢を探るために放っていた烏を、逆にこちらへの繋ぎを取るための足にされるなど、考えもしなかった。そういう型破りな行動を軽々と取るところは、自分とよく似ているとヒノエは小さく含み笑う。
懐に文を忍ばせた烏を見送り、残った面子に今後の大まかな方針を伝えて、ヒノエは仮の寝屋としている梶原邸へと足を向ける。今の最大の関心事は、源氏の動静。源氏と平家は、相争うからこそその向かう先が似ている。中でもあの先見の明に富む彼が遠からず熊野に行くと言っていたのだから、対する鎌倉の首脳陣も、どうせ同じことを考えているに違いない。
三草山の采配は見事だった。あの一戦の総大将は還内府とのことだったが、福原攻めをヒノエに断念させた福原の警護は彼に一任されていたという。源氏の放った斥候とは別に動かしていた烏が持ち帰ったのは、あまり舐めた真似はしてくれるなというあからさまな牽制。ふらりと陣幕を離れた先でわざわざ聞こえるようにひとりごとをのたまってくれたというのだから、気づいていて泳がせた、と知らしめたかったのだろう。
これだけの勢いがあるなら、あるいは源氏を滅ぼすまで退かないと、そう強硬な道を選ぶことも可能だろうに。見方によっては弱気とも、腑抜けとも評されるだろう道をあえて取らんとするその心はいかばかりだろうか。
「アンタを変えたのは、あの姫君なのかい?」
夕日に淡く染まる道を歩きながら、紡ぐのはひとりごと。流れに逆らおうとせず、ただ静かに視線をさまよわせていた。すべてを飲み込み、達観した様子でただ行く末を傍観していた。それが彼であるはずだった。武家としての在り方を忘れてぐずぐずと権勢に溺れる一門をひどく醒めた目で見やり、とどめることができないと見定めるや、苦言を呈することさえ諦めていた。
なればこそ、もうもたないと、そう判じていたのだ。客観的に見て、平家の擁する人材の中に、彼ほどの逸材はなかった。重盛が死に、宗盛が死に。続くのが彼であるならあるいはと、そう思う先で、しかし、彼は清盛に抗う姿を見せなかった。諦め、飲み込み、流れに埋もれ。生きることにさえ厭いているようだった。だから、もう駄目だと思ったのだ。あれほどの陽の気に満ち、世界から生きることを祝されているくせに、その類稀なる素質さえ疎んでいる、なんとも贅沢な自殺志願者。
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