月のない夜 --- 後編
ひたすらに、静かに。泥の中にゆるりと沈み込むように。彼は、眠りに落ちるような死を望んでいた気がする。生きる甲斐もないのだから、目覚めていても仕方ないと。呼吸にすら倦んだ様子で、取り巻く世界に疲れていた。それを押し殺し、表面を取り繕うのはいっそ見事なほどの仮面だったが、あいにくと、彼に触れていた頃のヒノエは幼かった。幼さゆえに敏感で、幼さゆえに、容赦なかった。
アンタはかわいそうな奴だな。そう言った気がする。それはかつても今も変わらない、彼へのヒノエからの評価だった。かつてはその疲弊と倦怠ゆえに。今は、その矛盾と孤独ゆえに。
「あの姫君がいたから、アンタはアンタの居場所を守ろうとしたんじゃないのかい」
彼女のことは、探りきれなかった。月天将の存在を知ると同時に素性を探らせたのだが、それらしき人物はいない。候補としては、彼が数年前に拾ったという身寄りのない、異国を出自とする女房だったが、それ以上の情報は手に入らなかった。だからその時は特に気にも留めなかったのだが、こうして彼の奇妙な動きに接するにあたり、探りきれなかったことを悔やんだのだ。かつてと今と、彼を変えるような何かがあるとすれば、彼女の存在以上の可能性は考えにくかったがために。
かわいそうな奴だな。そう言ったヒノエに返されたのは、珍しくも皮肉を微塵も孕まない慈愛の微笑だった。遠く高く、ひたすらに静かな瞳だった。そして、感情の色を一切滲ませない声で、ただ、お前は幸せなんだろうな。そう、言葉を紡がれたのだ。
「そしてアンタは、あの姫君を失っても、その決意を翻すことができないんだろうね」
それは、彼が彼であることを裏切る行為だから。行動の原点を失おうとも、そこに付随するあらゆるものを見渡せる視野を持った彼は、見出してしまったすべてを捨てることができないのだ。どれほど面倒だと言いながらも、あやすよう言いつけられて預かった幼い日の自分達の手を、決して放すことがなかったように。
時流に逆らおうとせず、すべてを飲み込み、達観した様子でただ行く末を傍観していた。その諦観をどこでどう覆す気になったのか、ヒノエは知らない。ただ、彼は一度こうと決めればきっとやり抜くのだろうと知っている。
半端なことが嫌いで、言葉と態度の選び方が病的に歪んでいるから、多くの人間が彼を倦厭した。そして、その倦厭の向こうに畏敬と思慕の情を獲得するほどに、彼のすべては潔く、彼はすべてに偽りがなかった。だから、彼はきっとやり抜く。一度こうと決めたのだから、最後の最後まで、可能性を手放すような愚は犯さない。たとえ、彼の欲求の根底が崩れ去るようなことになっても。
「……本当に、アンタはかわいそうな奴だな」
呟いて、ヒノエはただ彼の矛盾と孤独を惜しむ。矛盾を飲み下し、悟らせないだけの深さは存分に。孤独を押し殺し、気取らせないだけの強さも存分に。そして、その深さと強さをほんのわずかにも損なうことを、彼は彼の矜持ゆえに許さないだろうし、その矜持を貫くだけのすべてを手にしているのだ。
長じるにつれて、ヒノエは彼の仮面の凄まじさを思い知った。彼という立場を知れば知るほど、己という立場を知れば知るほど、その仮面の必要性と重要性と、そして何よりその向こう側の疲弊と倦怠の意味を知った。きっと似たようなものを似たように思い知りながら、ずっと与えられた言葉が頭の隅に引っかかっていた。
なぜ、彼は己に幸せなどという言葉を当てはめたのか。わからないまま年月を重ねてきた。きっとそれは、彼と自分の、それぞれが背負うものに対する思いの深さの違いなのだろう。そう、漠然と納得することにしていた。だから、己の背負うものを自分ほどに愛せないことを示して、これほどに愛せる自分を幸せだと称したのだろうと、そう思っていた。
そして、その思い込みが正しくなかったことを、思い知った。
彼は彼の背負うものを愛している。それも、恐らくは一門の誰にも負けないほどの深さで。
ただ、やはり彼は彼だから、半端なことが嫌いで、言葉と態度の選び方が病的に歪んでいて、それゆえに多くの人間の勘違いを誘発し、けれど正すことをしない。それは、彼の愛を穢す要因にはならないから。
彼の愛は、味方には理解されないし、敵方には不可解に映ることだろう。
怨霊の悲しみを誰よりも鋭く見抜き、抗えない時世の流れを誰よりも正しく理解し、その中で正しくあろうと、正しくあるための力になろうと、冷酷で悲壮な決断を誰よりも的確に下すその覚悟は、愛する相手にこそ理解されない。護られていることは知っていても、そうすることで守られていることを、きっと彼の愛する一族は理解していない。
それはなんと不器用な愛。
それはなんと屈折した慈しみ。
それはなんと報われない自己犠牲。
愛に愛を返されて、そしてさらに愛を深めて。そうして己の背負うものを守っていける喜びに胸を張って責務をまっとうする自分がいかに幸運なのかを、ヒノエは理解した。その幸福を思い知ってはじめて、彼の孤独を思い、彼の強さの奥深さを知った。すべてを知っているつもりだった。だが、そうではなかったのだと。
誰の理解も求めず、すべてを受け入れてすべてに疲れ果て、けれど彼はすべてを覆いつくしてその責務をまっとうしていた。それだけでも十分敬意を払うに値するのに、まっとうするだけに甘んじていた彼は、さらに踏み込んでその先へと手を伸ばしはじめた。
それは生半な強さではないし、生半な愛でもない。
見返りも、認められることさえも求めていない獣の、ケダモノには決して持ち得ない無償の愛。
思い知ったとき、ヒノエは唇を噛んで俯いた。自分の幼さに、彼の気高さに。
そして、彼を包む夜闇があることを静かに祝した。何も求めず、己の信念を過たず貫くことだけを希求した獣は、その存在を包む夜闇を知り、その不器用で屈折して報われない遣り方で、静かに夜闇を慈しんでいた。
彼の思いが、どこでどのように彼女という例外を打ち立てたのかはわからない。きっと、それは彼と彼女だけがわかっていればいいことなのだ。なぜなら、彼は彼女ゆえに彼の諦観を覆し、彼女を失ってもこうして意地を張り続けている。
その姿はヒノエの目には矛盾と孤独に満ちた痛ましいものと映るけれども、彼は彼の愛を裏切れないのだ。彼女という行動の原点を失っても、彼女ゆえに築き上げたのだろう彼の愛を穢さないために。
何度となく唇をすり抜けていった溜め息を、視界の隅に目指す邸の門扉を見つけたヒノエは、今度はそっと飲み込んだ。
情報収集を優先させ、相手の思惑を明らかにするという目的を掲げ、その向こう側でずっと延ばし延ばしにしてきた決断の日が迫っている。彼は彼の遣り方で彼の愛を貫いている。同じことはできない。けれど、かつて彼に幸せだと称された己を失うわけにはいかないから、ヒノエもまたヒノエの遣り方で、ヒノエの愛を貫く覚悟を決めている。その覚悟の先を理解し、寄り添いあって共に歩んでくれる、彼が背負うすべてのために。
だから、見極めねばならない。選ぶ道を。紡ぐ絆を。望む未来を。
「そうさ、オレは幸せだよ」
門前に立つ衛士にいぶかしまれない範囲での最後のひとりごとは、届きはしない彼に向けて。そしてヒノエは笑顔の仮面を被り、残された時間を目的の遂行に費やすため、門を潜る。
月のない夜
(アンタはどこへ往くんだろうね、たとえアンタの画策が実を結び、限りなく細い可能性の糸が未来に繋がれたとして)
(だってさ、知ってるかい)
(月明かりの滲む穏やかな夜闇を失った今のアンタは、)
(常闇にさえ甘んじて沈みそうなぐらい、眠りに焦がれる瞳をしているんだよ)