月のない夜 --- 前編
打診の内容は、いたって単純だった。すなわち、その力を借りたいと。
浴びるほどに聞き、すでに聞き飽きている、要請。誰も彼もが同じことを言う。都合のいい時ばかり擦り寄り、霊地としての、水軍としての、交易拠点としての熊野に、己に益をもたらす存在となれ、と。
ではお前達はどうなのか。お前達に力を与えたところで、熊野は益を得られるのか。そこまで考えた上での申し出など、聞いたこともない。寄進をよこす連中にしたって、結局は熊野権現の加護が欲しいという下心が透けているのだから。
だから、正直なところヒノエは落胆したのだ。いっそ失望したと言ってもいい。権勢の只中にあって権力に溺れず、財に驕らず、あくまで武家としての在り方にこそ誇りを持ち、けれど貴族としての嗜みを軽んじることのなかった姿を尊敬していた。見事なものだと、そう、素直に思っていた。だからこそ、耳に馴染み過ぎた要請を突き付けてきた彼に、裏切られたような気がしたのだ。
和議の道を探りたいから、第三者勢力として間に立ってほしい。
それは何と都合のいい申し出か。もはや平家は落ち目だ。そも、小松内府殿が臥せった折に次代をきちんと据えきれなかった時点で、もう駄目だろうな、と感じていた。後継者を育ててこその先達。たった一人に固執し、その光にしか目を向けなかった。それこそが敗因。
無論、いかんともしがたい事情があったとも理解している。小松内府の代わりに次代に据えたかっただろう彼は、あいにくかの人の正妻の長男ではなかった。血筋こそが大きくものを言うのだから、愚鈍な兄を持つ英邁な弟は、たとえ周囲の思惑がどうあれ、総領に従う郎党としてはべるしかない。
その後、諸々の事情が重なって総領の座に一時は就いたものの、程なく還内府などという此の世ならざる存在にその役を譲っている。その上での彼個人からの打診とあれば、平家一門が源氏に対して圧倒的優勢を誇る一族の結束の固さも、砂上の楼閣だったということだろう。木曾と鎌倉が争うなど、内部分裂を繰り返せばこそ隙をついていられたということさえ忘れたのか。同じ轍を踏めば、もはや瓦解は目の前だというのに。
漏れる溜息を堪えようともせず、けれどかつてはその在り方に敬意を払った相手。ならば返しの文はまっとうにしたためるべきかと、既に文面から引き剥がされていた視線をもう一度手元に落とす。そして、その判断こそが失望を感服へと覆す岐路であったことを、今でもヒノエはしみじみと思い返すのだ。
和議の道を探りたいから、第三者勢力として間に立ってほしい。和議の成った際の見返りは、交易品における熊野への税の優遇措置。南宗貿易の利権拡大。自治の保証。
続けられた文面は、まずそう約していた。
熊野の望む未来を掴むため、最大限の協力と譲歩を惜しまない。だから、その力を借り受けたい。それは、今まで浴びるほどに聞いた中でも初めての、熊野の益を前提とした申し出だった。
宮筋の存在は、どうしても無視できない。帝を、院を仰ぐ民草が、それを許さないだろう。人心を掴むには、朝廷を仰ぐという形式を打ち崩すのはあまりにも危険。だからと、朝廷を中心とした自治勢力の集合体という政治体制を整えることを提案してきたのだ。
関係各所からの人材、および租税の提供と、その見返りとしての各集合体の自治の保証という形式の確立。そうすることで、新しい時代を掴むことはいかがか、と。
気づけば夢中になってその流麗な手蹟を追いかけていたヒノエは、最後の一文字を通り過ぎてからようやく、気づけば詰めていた息を吐き出した。
中心として朝廷を仰ぎ、そこからの下知にも従うが、基本的には各勢力の采配に委ねられた自治を貫く。従う下知の内容も、各所から集まる面々の協議も経るという形式を整えればいい。さすらば、そうそう無茶なことにはならないだろう。
朝廷は権威と収入と護身の武力を維持でき、自分達は自治とそれに対する朝廷のお墨付きを手に入れる。身を守り、未来へと繋ぎ、慣れ合うのではなく、けれど手を携えあって生きていくという選択。それは、これまでヒノエの発想にはない道の提示だった。
院へのごり押しのためにも、各勢力がいたずらに力を落とすのは避けたい。いずれも無視できない状況に追い込み、すべてを抱え込むという選択を院に示さねばならない。
貴きあたりへの敬意なぞどこへやら。くつくつと喉で低く笑う声さえ聞こえてきそうな文言の並びは、ひそやかな失笑を誘うものでもあった。あくまで飄々と、何もかもを超越して俯瞰しているような姿を見せつけて軽やかに踏破していくくせに、誰よりもこれと決めた対象に執着し、決して手放そうとしない意固地さをみせる。
矛盾を矛盾と知らせず、それこそが彼の理屈なのだと、そう言い切って押し通すだけの力。ごり押しとは、何とも言い得て妙だった。なるほど、彼は屁理屈を理屈に昇華させてでも、その欲求を貫くつもりなのだろう。
源氏に与してほしくはないが、平家にはもっと与してほしくない。怨霊と神職が手をとりあったと、そう見せてはいけない。あくまでも熊野の霊地としての権威を守るべき。
己らの在り方さえ嗤い飛ばしながら、彼は冷徹に可能性を紡ぐ。
辿る道は、より熊野に益を齎すものでないとならない。なればこそ、彼の提示した新しい道行きは、一考の余地ありなどというものではなかった。
だが、と。彼が平家一門の生き人の行く末を憂う、黄泉より還りし総領の陰であるなら、ヒノエは熊野のすべてを担う頭領という光。踏み出しかけた一歩を意志の力で押しとどめ、そっと、内情を探る揶揄の笑みを向ける。
お前は総領でも棟梁でもない。提案は魅力的だが、すべては還内府の考え次第じゃないのか。
返したのは嫌味だった。いくら彼が可能性を探ろうと、掴もうと、それを確実に実現する力がなければ熊野は靡けない。その凡百さが知れていた兄を総領に、と、その流れに逆らおうとせず、ただ静かに視線を遠くにさまよわせていた姿は記憶に遠くない。
時流に逆らおうとせず、すべてを飲み込み、達観した様子でただ行く末を傍観していた。それが彼であるはずだった。武家としての在り方を忘れてぐずぐずと権勢に溺れる一門をひどく醒めた目で見やり、とどめることができないと見定めるや、苦言を呈することさえ諦めていたのだ。今になって、一門の誰もが待ち焦がれていただろう存在が還った中、その意向に背くような真似をする気概があるのか。そう疑うのは当然のことだろう。
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