玉の緒
無論、言われずともそんなことはわかっている。なにせ、希にこの奇妙な風習を教えてくれたのは父の義兄に他ならず、父もまた同じことをその人から聞いたに他ならず。ならば、裏表などないあの人のことだ。きっと、同じことを、同じように語って聞かせたに違いない。だからこそ希は考えに考えて、けれど思いつかないから、あえて問うたのだ。何か、こんなものはいらないと返されるようなものを贈るぐらいなら、彼が欲しいと望むものをこそ贈りたいと。
「――だというのに、酷いと思いませんか?」
「そう、ですね」
ぷりぷりと頬を膨らませながら、見よう見まねでたすきがけることで袖をまとめた希は、慣れない手つきで布地に針を刺していく。
「もちろん、父上が欲しがるようなもので、ボクがご用意できるものなど、たかが知れているということはわかっています」
たどたどしい手つきながらも、丁寧に。とはいえ、それをはじめて手に取った時よりは格段に慣れた様子で。実はそこかしこに血が染みついているだろう布地も、そろそろ完成形が見て取れるようになってきた。
「それでも、せめては知ってみたいと。そう、思うことさえ傲慢なのでしょうか」
「そんなことはありませんよ」
手元からは決して目を離さない。なぜなら、離すと同時に指を刺すだろうことが目に見えているからだ。それでも、声音には心情が溢れんばかりに滲んでいるし、何より、横に座り込む娘には丸見えだ。針仕事など、望美には大変に困難な作業であっても、娘にとってはごくごく慣れ親しんだことなのだから。
憤り、拗ね、ふてくされて文句を言っていた先ほどまでが嘘のように、しゅんと肩を落として沈んだ声を紡ぐ希は、きっと気づいていない。
知盛は、決して嘘を言わない。誤魔化すために相手が誤解するだろう言葉をあえて選ぶことはあっても、偽りだけは紡がない。それは、きっと“家族”というごくごく近しい立場にあり、かつ、政治的な関わりを一切持たない、娘や希のような稀有な立場のものにだけ見せる側面だ。知盛は一人の男であり、夫であり、父親であり、息子であり武人であると同時に、為政者という立場に立つものであり、駆け引きと共に生きている。なればこそ、常と同じ表情で、まるで呼吸をするように偽りを述べることも珍しくはなく、きっと困難なことではない。それでも、少なくとも娘は知盛が希に対して偽りを述べているところを見たことがないし、話題に上がっていた今回の顛末に関して、彼が偽りを述べなくてはならない理由など、どこにもないのだと知っている。
「でも、教えてさえくださいませんでした」
「そうですか?」
ちょうど、切りが良かったのだろう。作業の手を止め、振り仰いできた双眸はどこか不安げな色に染まっている。なんとも可愛らしいことと、思うまま、頬の緩むのを隠そうともせず、娘は小さく微笑んだ。
「知盛殿は、何も言ってくださらなかったのですか?」
「考えておくと、言っていました」
「して、その結果は?」
「……ボクの“さぷらいず”を、楽しみにしている、と」
「では、それがお答えなのでしょう」
さぷらいず、と。この世界にはあるまじき言葉を、けれど流暢に紡ぐのは、希の周辺にそれらの言葉に慣れ親しんだ存在が集っている証。将臣はもちろん、娘とてその言葉の発音に苦労することはないし、どうやら学習能力が高いらしいあの銀色兄弟は、さすがに五年を越す付き合いになる義兄殿の言葉を、それこそ違和感のない完璧な発音でもって自由自在に活用している。
くすくすと喉を鳴らす娘が手掛けているのは、希の新しい衣装を一式。いつなりと元服の儀を迎えられるようにと、輿入れと同時に与えられた一番初めの仕事が、希の晴れ着を仕立てることだった。その隣に座り込み、実は希が一番はじめに知盛に質問を投げかけるよりも前から、手がけているのがこの針仕事。娘の手許からほんのわずかに端切れを譲り受け、一針一針、作り上げているのは香袋がみっつ。
聞けば、なんでも将臣が持っているものを見て、興味を持ったのがきっかけだとか。そこにさらにペアルックの話だの、結婚指輪の話だの、いろいろな与太話を吹きこまれていることまでは、さすがの娘も聞いていない。ただ、慣れない針仕事だからと、できれば練習をして、綺麗にできたものを渡したいのだと訴えてきた希の言い分をそのまま受け取り、忙しい手習いの時間の合間を縫っては隣に座り込む姿を、そっと知盛の目から隠してやっている。
「そういうこととは、どういうことですか?」
「そのままですよ。知盛殿はただ、希殿の“サプライズ”が、楽しみで仕方ないのでしょう」
振り返ってみれば、知盛がこれまで娘に要求してきたものも、根源を辿れば同じようなこと。その時間を寄越せと、その思考を寄越せと。つまり今回も、そういうことだ。知盛はきっと、必死になって自分のことを考える希を見てほくそ笑んでいるのだろうし、満たされているのだろう。だから、もし希ができが悪いと判じる香袋を渡したところで、絶対に嫌な顔はしない。その、小さくて不器用な香袋に詰め込まれた希の思いと時間を見誤るような、浅薄な人間ではないのだから。
娘には、なんとなく知盛の気持ちがわかる。だって、娘は別に、知盛から何か物をもらいたいと思ったことはない。無論、与えられれば嬉しいし、生活する以上は必要なものもたくさんある。それでも、知盛に対してあれが欲しい、これが欲しいと思ったことはないし、告げたこともない。ただ、時折り気紛れのように渡される草花があり、手向けられる言葉があり、共に過ごすことを許された時間が続いていく。それがどれほどにかけがえがなく得難い奇跡であるかを、嫌というほど知っている。どれほど高価な宝玉も、反物も、意味はない。娘にとって何より価値をもつのは、知盛という存在。彼から与えられれば、河原の石でさえ特別な輝きを持つ。そして、同じことを“息子”にも感じている。ただそれだけのことなのだ。
「希殿は、その香袋を、いい加減な気持ちで誂えているわけではないのでしょう?」
「もちろんです」
慣れない手を必死に動かして、指先に何度となく針を刺し、それでも希が作業をやめようとしない姿を、娘はずっと隣で見ていた。だから、その贈り物に知盛がどれほどの価値を見出すのかを、正確に予測することができる。
「ならば、これ以上はない贈り物ですよ」
確かな自信に裏打たれた声で朗々と紡いでやっても、希の不安げな様子は払拭されない。なんとも、捻くれた愛情表現であることだ。わかりにくい父親を持ってしまった子供にほんの少し不憫さを覚えた娘は、せめて自分はわかりやすい母親であろうと胸に決意を秘め、その身を己の胸にそっと抱き締めてやることにした。
Fin.
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