朔夜のうさぎは夢を見る

それはいつか

「少し、休まれてはいかがです?」
 そっとかけられた声はあまりにも穏やかで、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどだった。それでも確かに耳朶を打つ、強さ。穏やかで、たおやかで、柔らかで。けれどそれだけではない。だからこそ彼女は一門の母であり続けるのだろう。将臣は、そう思っている。
 まずは木刀の切っ先を地に向け、体ごと振り返る。首だけを巡らせていいような、そんな相手ではない。地位だとか、家主と客分という関係性だとか、そんな表面的なしがらみとはまったく関係なく、早々に直感した彼女という人間性への純粋な敬意による認識だった。
「尼御前、いついらしてたんです?」
「ほんの少し前でしょうか。いたく集中しておいででしたから、気づかれなかったのも無理はありませんね」
 常の装いに加えて、恐らくは防寒用だろう上着を重ねているあたりからして、決して「ほんの少し前」ではないはずだ。だが、彼女はそうして優しく嘘をつき、有無を言わせぬ頬笑みで将臣を手招いてみせる。
「さあさあ、少し休まれませ。適度に休息を挟むことも、鍛錬には重要なのですよ」
 そっと示されたのは彼女の隣。反対側には、いつの間に用立てたのか、将臣が適当に放り投げておいた手ぬぐいの代わりに綺麗に畳まれた布と提子が待ち構えており、仄かに湯気の立つ白湯が椀に注がれる。


 ありがたく白湯を受け取り、口に含めば知らず長々と溜め息が零していた。どうやら、自覚以上に疲労していたらしい。そういえば、記憶にあるのと太陽の位置が違う。いったい、どれほどの時間を過ごしたのだろう。
「己に厳しく身を鍛えるのはご立派ですが、無理をして、体を壊すようではいけません」
 しみじみと空を仰いでいささかぼんやりしてしまっていた将臣の耳に、まるで考え事を見透かすかのような言葉が届けられる。
「それは、心もまた同じです」
 思わず振り返ってしまった将臣の視線をまっすぐに受け止め、やわらかな声音とは裏腹に、どこか張り詰めた表情で尼君は続けた。


「殺し過ぎてはなりません。無理を押してはなりません。きっと、わかっているとおっしゃるのでしょうが、本当にそうでしょうか?」
 彼女は何を知っているのだろう。何も言っていないはずだし、誰も告げていないはず。このところ彼女は病床に伏している夫君につききりで、将臣と知盛の間にあったことなど、将臣が今まさに葛藤している悩みなど、察する術もないはずなのに。
「積もりすぎては、やがて見えなくなり、聞こえなくなり、感じられなくなります。――どうか、立ち止まり、引き返すことを、忘れることのないよう」
 何を言うこともできずにいる将臣を置き去りに、尼君はひとつ瞬いて、囁くような声で付け加えた。あなたはまだ、間に合うのですから、と。





習慣



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Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。