朔夜のうさぎは夢を見る

果て無き懺悔

 赤間関への出陣を認めてもらえなかったのは、何も重衡だけではない。将臣もその一人で、結局南にそのまま赴くことをどうしても了承できず、妥協案としてこうして厳島に残ったのだ。
「将臣殿は、最後まで付き合うおつもりなのでしょう? わたしは、その終焉を見届けます」
 ふと、声が力を取り戻す。凛と透き通った声が、真っ直ぐに前を向いて、宣言する。
「見届けることさえ出来なかった、あの人の代わりに」
 綺麗な声だと思った。知盛も美声の持ち主だったが、彼女もまた美声の持ち主だった。二人がさざめくようにして言葉を交わしているのを聞いているのが、将臣は好きだった。穏やかで、やさしくて、あまやかで。それでいて、勁いのだ。
「これが、あの人を呼んでしまったわたしの、せめてもの償い」
 迷いも後悔も罪悪感も、そのすべてを内包してなお、二人は強かった。それを体現する声だと、そう思っていた。
「見るべきすべてを見届けることこそが、わたしの責務」


 将臣もまた見ていたのだ。重衡が悔しそうに、悲しそうに唇を噛み締める隣で、すべてを。
 知盛が戻ってきた理由を察していた。それゆえに抱いた後悔と哀しみを知っていた。
 が呼んでしまった衝動を察していた。それを知っての後悔と悲しみを知っていた。
 あってはならないことと、そのぐらいはわかっている。死者は眠らせるべきなのだ。呼び返してはいけない。死出の旅路は、不可逆のそれと世界が定めている。そして、知盛ももそれをきちんとわかっていて、その通りにあろうと定めて生きていたことを知っていた。
 だからこそ、二人の思いは理解できて、理由も理解できて、わかってしまうし否定できない。知っているから、何も言えない。
「――そうか」
 それが、ようやく返せた一言だった。


 辿りついた舞台で、二人が見たのは予想外の光景だった。嬉々として怨霊を生み出すための祈祷を行なっているのかと思われた清盛が、祭壇に伏して泣いているのである。
「おい、どうした?」
「しげもり……」
 あまりにも見慣れない様子に慌てて将臣が駆け寄り、肩を抱いてやれば、弱々しい声が青年の向こうに透ける遠い人の名を呼ぶ。
「重盛、そなたは逝くな……いずこへも、いずこへもじゃ。この父を悲しませるような真似はするな。良いな?」
「………俺は、最後までここにいるよ」
 噛み合わない会話が悲しかった。だが、その悲しみを訴えることさえできないのだ。紛れもなくそれは愛だった。本当に、眩くて尊くて、何にも代えがたい恩愛だった。ただ、過ぎればいかな感情とて執心となってしまう。誰よりも平家を憂え、平家を愛し、平家を守らんと願った深い深い愛の持ち主は、今や誰の声も届かない妄執の向こうにいる。
 宥めるように肩を軽く叩かれ、必死の様相で将臣に縋りついていた幼い姿の平家の棟梁が、ふとその暗く、狂気と混沌を宿す眼差しをめぐらせる。


 膨れ上がった憤怒と憎悪の気配に、は真っ向から対峙した。
「お前が、お前が悪いのだッ!!」
 怒声と共に叩きつけられるあまりに純粋な陰の気に、眩暈がする。だが、振り払うことはやってはいけないと思った。
「ようも知盛を殺したッ! あれほどに慈しまれて、その恩を仇で返し、あまつさえのうのうと吾の前に現れるとはなッ!!」
 魂の奥底で、蒼焔がさざめいている。この身に仇なすモノを焼き尽くそうぞと囁きかけてくる。その声をそっと抑えて、は知盛の悲しみを思う。
「お前が死ねばよかったのじゃ! お前の力なぞ、知盛の足元にも及ばん……平家には、知盛の力こそが必要だと申すのに……ッ!」
 知盛、知盛、と。ひたすらに名を呼ぶ姿は、親とはぐれた迷い子のようであり、迷子を捜す親のようであり。そして、冷徹な平家棟梁のそれだった。


 涙に濡れながら呼び続ける声を、あの人はどこかで聞いているのだろうか。聞いて、そしてまた悲しんでいるのだろうか。宥め、諌め、嗜める将臣の声は聞こえない。呼び続ける清盛の声も、聞こえない。
 あなたは確かに愛されていた。胸に提げた水晶を衣の上からそっと押さえ、は胸中で語りかける。
 あなたは確かに愛されていた。彼はあなたの力を欲していて、でも、あなた自身も愛していた。それは、何の迷いもなく真実であると言い切れるし、きっとあなたも知っていることなのに。
「戻れ、戻れ知盛! 父の声が聞こえんのか? そなたの力を、今一度吾らのために揮うのじゃ!!」
 あなたの力を、才を呼ぶのはそれだけの高評価ゆえに。あなたが余さず彼の期待に答え、彼の誇りでありつづけたその証左。けれどきっと、あなたはそれが悲しかったのだろう。だって、他には誰も、あなたのように「その力ゆえに」と呼ばれはしなかった。だからあなたは周囲から畏敬と羨望の視線を向けられて、だからあなたは哀しんでいた。
 生きている頃は、それでも良かった。あなたはその存在そのものもまた愛されていることを確信していて、彼はその存在そのものをこそ最も愛していると自覚していた。けれど、歪んでしまった。
 そうして歪んだ愛のカタチが、あなたに、最後の絶望を突きつけた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。