朔夜のうさぎは夢を見る

果て無き懺悔

 刀を納め、ついでに蒼焔を呼び戻してからはゆっくり、慎重に水脈を開いていく。
「待て! 何のつもりだ!?」
 風脈、地脈、水脈は、ヒトならぬ存在が瞬時の空間転移の際に利用している気脈の流れ。そういう存在になってようやく絡繰りがわかったと興味深げに目を細め、教えを乞うたに知盛は丁寧にその術を教えてくれた。自身は一度もそれを行使しなかったくせに、教えるからにはこれを使ってでも必ずこの戦乱を生き延びろと、命ぜられた。
 鋭い声は、数歩の距離を詰めただけで躊躇っている。あまり間合いを詰めすぎては、もまた海に身を投げるとでも思っているのだろう。敵将なのだから、そのぐらい気にせず冷酷に撤せばいいのにと。胸の奥で自嘲をこぼしながら、手向けられる不器用な気遣いにぎこちなく笑う。纏う気配の方向性は正反対の癖に、妙なところが彼に似ている人だ。
「お相手をするのは、知盛殿のみと申し上げたはずです」
 手繰り寄せた気脈の一端を手放さないように気をつけながらも、は振り返って告げてやる。
「わたしはただ、この戦乱の行く末を見届けるだけ。見届けるのに、刃を交える必要はありません」
「……あなたは、何者なの?」
 畳み掛ける神子の言葉は、恐らくその場に居合わせる全員の疑問を代弁したものだろう。いや、全員ではないか。痛ましげに視線を伏せる敦盛だけは、きっと、の答えを知っている。
「月天将――平家の罪の一端を知り、その行く末を見届ける傍観者ですよ」
「どういうことなの? ねえ、待って!」
 待てと言われても待つ義理などにはない。
「厳島においでなさい。そこで、あなた方は平家の歪みの真髄を知ることでしょう」
 平家の血を持たぬ総領を知り、その中枢に君臨する生死の矛盾を知る。そして彼らは、その矛盾を正し、平家を滅ぼし、新しい時代を築く。自分達の与えうる新時代への変遷に対する手向けは、この赤間関で最後だろう。名の通り、血で血を洗う陣痛をも呑み込み、彼らは前に進むのだ。
 仄かな自嘲の笑みを残して、は開ききった水脈のうちへと己が身を溶かし込んだ。


 気脈を辿る感覚は、どうにも慣れることができない。さほどの回数をこなしていない、ということもあるのかもしれないが、周囲を漂うあらゆる気の中に自身の輪郭を溶かして混ざってしまうと、もう戻れないように思えてならないのだ。
 かつて、教わったことを実践できるようにと練習を重ねる時には、いつだって目印に彼がいた。死の関を超え、戻るに際して何がどう作用したのか、生前は金の気が強かった、けれど死後は水の気が強く漲っていた彼の存在。静かで、澄み切っていて、揺るぎない輝きを頼りにその隣で輪郭を形作ればよかった。彼の隣に立つ自分の姿なら、寸分違わず思い描ける自信があった。
 辿り、辿り、目に見えない指を伸べて探し当てるのは陽の木気。生者も死者も、誰もが目を細めて仰ぎ見ていた、昔日と未来の、夢。


 ゆっくりと凝集しはじめた気配を感じ取ったのだろう。廻廊を歩いていた足を止め、青年はふと背後を振り返る。はじめは陽炎のように。それが徐々に揺るぎなく輪郭を取りはじめ、最終的には見慣れた姿に。鎧を身につけてなお仮面を外し、髪を解いている姿ははじめて目にするものだったが、そんな些細な違和感はどうでもいい。問題は、彼が別れ際までずっと案じている様子だった彼女が、きちんと無事に自分の傍に戻ってきてくれたか否かの一点に尽きる。
「ただいま戻りました」
 ひんやりとした風が彼女を取り巻き、そして散っていった。この風が散るということは、彼女が完全に輪郭を取り戻したということだ。そのまま腰を折って帰還の挨拶を告げた一門の誇る勇将に、将臣は短く「ああ」と応じる。
 待ちわびていた影はふたつ。戻ってきた影はひとつ。きっとそうだろうとは思っていた。けれど、胸が痛くてそれ以上の言葉を咄嗟に返すことが、できなかったのだ。


 怪我はないとのことだったので、そのまま当初の目的地に彼女を伴うことを選び、将臣は歩きながら報告を聞く。
「御座舟をはじめ、南に下った方々に源氏勢が気づいた様子はありませんでした」
「……」
「派手にやりましたので、恐らく赤間関こそが平家終焉の地と広く見なされることでしょう」
「……」
「知盛殿は、神子一行に敗れ、入水なさいましたし」
 将臣にとって一番気がかりだった、そして一番聞きたくなかった一言が、あまりにもあっさりと風に乗る。


 声に揺らぎはなかった。淡々と、凪いだ湖面のような静かな声。そうして感情をすべて押さえつけて、微塵ものぞかせずにいる様子がいやというほどよく似ていて、将臣は顔を俯けてくしゃりと笑う。いびつな笑顔を浮かべている自覚が、ある。
 いつしか足は止まっていた。中途半端な位置で立ち止まっても、けれど誰に咎められることもない。この厳島にいるのは、生身の人間は将臣とだけ。後は意思持たぬ怨霊と、最奥の舞台で今なお歪みの原因を作り続けているだろう、平家の棟梁だけ。
「悔やむなと。そう仰せでした」
「……言い訳はねぇのかよ」
「どうせわかっておいでだろう、と」
 歪む将臣の声に対し、の声はいっそう凪いで平淡になっていく。その落差が悲しくて、握り締める拳が震えるせいで全身が小刻みに揺れているのを自覚する。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。