朔夜のうさぎは夢を見る

果て無き懺悔

 美しいと、彼はそう言った。その通りだとも思う。己の役目を知り、責務を知り、そのすべてを余すことなく片付けていこうとしている彼は、血にまみれていても傷だらけであっても、どこまでも美しかった。そして、そっと悔いる。なれば自分は、彼がこうして美しいまま、あるべき時間をあるべき形で終えようとしたのを阻んだのだ。それは、一体どれほど傲慢で唾棄すべき行為だったのだろう。
 そのまま愛おしむように穏やかに戦場を見つめていた知盛が、ふいに視線を戻す。
「還内府殿は、厳島においでだぜ」
 傷など嘘のように、どこまでもやわらかな声で告げられたのは先の神子の問いへの答だった。皮肉げに唇を歪め、目元を歪め、知盛は滔々と告げる。
「ここの指揮は俺が預かったがな。その他のことは、知らん……何をなさるおつもりなのかも、何をお考えなのかも」
「……あなたは、ここで終わるつもりだったの?」
「それこそが、神の与えたもう使命なのではないのか? “白龍の神子”殿?」
 あえて呼び名を変えた意図を察しあぐねたのだろう。怪訝そうに眉根を寄せる神子にちらと笑い、知盛はそのまま踵を返す。


 戦場にあってのみ鮮やかに焦点を結ぶ存在が、陽光に滲みはじめる。その輪郭の消滅に、これで終わるのだとは理解する。
「御身に浄化していただこうなどと、そんな戯言は言わぬよ」
「どういうこと? 知盛、あなた、何を言ってるの?」
「この身もまた理を侵すそれだと、そう申しているだけだが?」
 まるで空が蒼く海が青いと、そんなことを告げるような調子で嘯いて肩を竦め、知盛はゆったりとした足取りで、しかし確かに船首へと向かう。唖然と目を見開く神子や八葉になど、微塵の感慨も抱かず。
 流された視線に、はほんの刹那の逡巡を挟み、けれど迷いなく仮面を脱ぎ去った。これを最期とするのなら、何も挟まずに彼を見届けたかった。何も挟まずに、彼に見納めて欲しかった。
 髪を結い上げる組紐を解き、背に落ちた髪を潮風に遊ばせながら、は問う。


「何ぞ、還内府殿への申し開きはございますか?」
「特にはない。どうせ、知っていたろうよ」
 俺に、帰還するつもりなどないことぐらい。嘯く声はやさしく、慈愛に満ちていた。
「ああ、だが、そうだな。……悔やむな、と。あれは、やさしさが過ぎる」
「しかと、承りました」
 淡々と言葉を交わしながらも知盛は船首に辿り着き、そしてふらりと空を仰いだ。
「空の蒼さは、お前の故郷も似たようなものか?」
「空も、海も。世界の美しさは、どこにあっても変わらず尊いものです」
「では、この海の果てに、お前と相見えることもあろうな」
 振り返った貌は、ただやさしかった。やさしく、美しく、穏やかで、その透明さが切なかった。場違いなほどに静穏な空気に呑まれていたらしい神子達が、何かを言っている。動いている。それらを一顧だにせず蒼焔で行く手を阻み、は知盛の最期を見届ける。
 今度こそ、呼ぶことのないように。その現実を、余さず全身全霊で受け止める。


 細められた深紫の双眸は、ひたすらにのことを見つめていた。まるで網膜に焼き付けるように見つめて、そのまま目笑して知盛はゆるりとその身を宙に投げ出す。
 残される言葉はなかった。ただ、最後までそらされることのない瞳が伝えていた。楽しかった、と。


 敵の総大将が海に落ちたと、周囲の舟で兵達が叫んでいた。神子との大将戦に遠慮して遠巻きに見守っていたらしい源氏勢の舟が、次々に櫂を漕いではその遺体を上げようと回収に熊手を差し伸べる。そしては、それを許さない。
 素早く抜き放った小太刀を高々と天に掲げ、海面に切っ先を向けて身内を流れる神通力を一気に叩きつける。爆音と共に迸った水柱を中心に波が起こり、周囲の舟を翻弄する。
 御座舟もまた大きく左右に傾ぎ、足元が掬われる。均衡をとろうとして腕を宙に踊らせ、指先が外れた仮面が海に落ちる。それを横目に見送って、は胸中で呟く。手向けはまた、改めて。今はどうか、それで我慢してくださいと。
 降り注ぐ水飛沫の中、はどさくさに紛れて周囲を漂う水の気に呼びかける。どうか、連れて行って欲しい場所がある。そのために、お前達の築く水脈を辿らせてはもらえまいか。
 周囲を探っても、もうろくに味方の気配は感じられない。元々、この赤間関は捨て戦だったのだ。逃れるものが確実に逃れられるよう、目くらましになり、足止めになればそれでいい。ここに残ったのは、終わり方をこれ以外に見つけられなかった、不器用でやさしい存在だけ。
 その彼らを前に、改めて約束をさせられた。見届けたら、必ず帰ると。それは、知盛との約束であり彼らとの約束。だから、は帰る。きっと胸を痛めながら西の空を仰いでいるだろう、優しすぎる、彼らの愛した総領の許に。

Fin.

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