果て無き懺悔
もっとも、どれほど取り繕おうとも、気にせずにおこうとも、時流は容赦なく流れていく。還内府が熊野から持ち帰ったのは、中立の一言。とはいえ、それがいつまで保たれるかも知れたものではない。
ここは早急に次の手を打つべきだと、屋島を手放し、より強固な陣を敷ける長門国は彦島への撤退を命じる声に応じて、一門は取るものもとりあえず知盛のかつての知行国へと撤退した。福原を落とされてより約半年の後、そろそろ冬も本格化するかという頃のことである。
長門国だの赤間関だの、その言葉が何を示すのか、はよくわかっていない。ただ、地図を見せられて将臣の焦燥と絶望を理解した。なるほど、ここは山口県下関。壇ノ浦と、後にそう称される、あまりにも有名な盛者必衰の代名詞。
さすがに軍議ともなれば顔を出す知盛は、日を重ねるごとに疲労の色を濃くしているようだった。必要時以外は曹司の正面にあたる簀子に出て、ぼんやりと勾欄にもたれては風に曝されながらまどろんでいる。屋島も彦島も、海が近い分風に存分に水気が含まれているらしい。それを受けていると心地良いのだと、言っていたのはいつのことだろう。
源氏勢の一派が、大軍を率いて九州を制圧したらしい。山陽の豪族も水軍も、ほとんどが静観を決め込むか源氏におもねるか。皆、敏いことだと。嗤う知盛の声は昏かったが、決して陰湿ではなかった。
「還内府殿といい、お前といい。決して暗愚でもないのに、ここまで来てなお最後まで付き合うと……そういう輩も、嫌いではないがな」
「お眼鏡に適ったのなら、光栄なことと存じます」
「言っても聞かぬゆえ、諦めただけだ」
呆れたように混ぜ返し、知盛は月のない夜空に目をやっている。
「帝が泣いておられたぞ」
「叔父上が意地悪くていらっしゃるからでしょう」
「どこぞの女房に振られたのだとか……。勅命に背くような女房が、我が一門にいたとはな」
遠く、響く喧騒は郎党達の集う宴のものだ。一体何を考えていたのか、砦だの邸だの、あらゆるところからかき集めてきた主が示した酒はどれも上物揃い。その馬鹿さ加減への手向けだと、配下達に与え、笑った横顔は寂しげだった。
「惜しむなよ」
視線が向けられないまま、声が真摯に響く。
「持てる限りすべての力を使い、お前は生きろ」
「……いかな力を使ってでも、と?」
「当然だ」
傲慢なほど強気に言い切って、知盛は嗤う。
「それが、命あるものの特権だ」
その裏に潜ませた真意にが気づかないはずがないと、知っているだろうに。
明けた翌朝は、眩いほどの快晴だった。空が突き抜けるように高く、海の青と好対照をなしている。その境を埋め尽くすように船のひしめく様は、まさに壮観。後世まで歌い継がれるのも無理はない。これはだって、あまりにも美しく壮絶な抒情詩。この光景を切り取って残せないのなら、言葉を尽くして伝えるほかあるまい。
ついに合戦がはじまり、空は飛び交う数え切れない矢によって薄暗く塗り潰される。数の上で圧倒的優勢を誇る源氏勢に対し、最後まで残った平家の兵達は怯まない。むしろこうでなくてはと言わんばかりの好戦的な笑みを浮かべ、次々に舟が敵陣へと突っ込んでいくのを、は御座舟から静かに見送っている。
「どうだ?」
「神子殿のご一行は、どうやら舟で移動しているようですね」
感覚の触手を四方に散らし、情報収集に徹していたは、背後からかかった声に振り返らないまま言葉を編む。
「こちらに真っ直ぐ向かっています」
「還内府殿は」
「厳島ではないのですか? ここからでは、遠すぎて捉えられませんが」
「大人しくしてくれているなら、構わん。……言っても聞かないあたり、お前達はよく似ている」
くつくつと喉で笑い、声の主はの前へと歩み出た。
平家の陣の中でも最奥にあたる御座舟に届く矢はさすがにまだない。左右に広く展開する味方の舟をすべて視界に納めるようにして、知盛は呟く。
「我らの意地は、さぞや滑稽だろうな」
御座舟に残っているのは、知盛との二人だけだった。昨夜のうちに、帝を含む一門の女子供とそれを警護する一部の将兵、郎党、その他にも今日この戦にて散ることをこそ望んだもの以外はすべて逃してある。意思を持たない怨霊達は、が手ずから葬り去った。そうして整えられた舞台に残されたのは、知盛いわくの愚か者ども。その愚かさが愛おしい自分は救いようがないのだろうと、嘯く背中はやさしかった。
「過ぎた夢だった……あまやかに過ぎ、やさしさに満ち。なればこそ、醒めることが惜しい」
悼むように、慈しむように。深く深く、声が響く。
「あれらにも、同じ思いでいて欲しい、と。そう欲すのは、傲慢なんだろうな」
からは背中しか見えないけれど、その双眸が穏やかに細められているのはありありと思い描けた。声音から心情を察せるほどには、近くにいられたと信じている。近くにいることを許された最後の時間だからこそ、こうして最期まで、余すことなく見せてくれようとしているのだと、知っている。
「同じ夢を見たからこそ、我らはここにいるのです」
だから、返す。やさしさゆえにと勘違いさせたまま、悔いを抱えた最期にはしてほしくないから。この身は罪にまみれているけれど、その罪の原点を醒めることの惜しい夢だと言ってくれるのなら、きっと過たず通じるだろうから。
「私達は、醒めます。けれど、夢は確かに続きましょう? 遠く、南の島で」
ここに残りたいと言う者は数多いた。それを許されたものもあったが、許されないものもあった。例えば、外見だけならば主と鏡写しのようにそっくりな青年だとか。
「託せるからこそ、私達は醒められるのです」
「……そう、だな」
目の前の彼が、どんな言葉を使って弟を説得したかを、は知らない。ただ、その後にをひそりと訪ねたその彼に、兄をお願いしますと泣かれた。すべてを知っていた数少ない一人にそうして託された思いをが裏切れないように、すべてをわかって託した自分達の願いを彼が裏切らないことを、は微塵の疑問もなく信じている。
「お前の後悔も、では、これで終わるか?」
穏やかに、あまやかに。振り返りながら投げかけられた問いに、そしては答える言葉を持たない。
Fin.