朔夜のうさぎは夢を見る

果て無き懺悔

 福原を失ったことは、あまりに大きかった。どうしたって憂いと不安に沈む一門のものを鼓舞しながら奔走する還内府を横目に、は知盛の傍らでごく静かな時間を過ごしている。
 まるでそこだけ切り離された桃源郷のようだと、笑っていたのは将臣だったか、重衡だったか。政務をほぼ丸ごと投げ出し、知盛は時間のある限りひたすらに眠り続けている。時に膝枕を供しながら、時に全身を抱きこまれて簀子に共に寝そべりながら。もまた、多くの場合は知盛の手の届く範囲にいる。
「胡蝶殿」
「これは、帝。いかがなされました?」
 今日の知盛は、何を思ったか庭木の根元で眠っていた。梢からこぼれる陽光がちらちらと揺らぎ、その銀髪に仄かに反射するのが美しいと。そんなことをぼんやり考えながら肩を枕代わりに差し出していたは、邸の方から呼びかける稚い声に首を巡らせ、表情を綻ばせてから知盛の頭をそっと外す。


 幼いとはいえ、相手は帝位を冠す存在だ。身じろいだということは目を覚ましたのだろうに、知盛はそのまま狸寝入りを続行することに決めたらしい。木の幹に頭を預けなおし、静かに呼吸を繰り返している。
 そのままが立ち上がるよりも、少年が階を下り、置いてあった草履を履いてたかたかと駆け寄ってくる方が早かった。仕方がないのでそのままの位置で居住まいをただし、叶う限り丁重に礼を送ったに、幼くも威厳に満ちた声が「堅苦しくしなくていいぞ」と許しを与える。
「知盛殿は、寝ているのか?」
「帝が呼ばれれば、起きられましょうが」
「いや、いい。軍場では鬼神のごとしと聞いている。何もない時ぐらい、ゆっくり休ませてやりたい」
 そっと息を殺して臣下でもある叔父の寝顔を覗き込んだ少年は、鷹揚にそう告げての膝に腰を下ろす。
「それに、知盛殿が起きている時は、胡蝶殿は私に構ってくれない」
「……そう、でしょうか?」
「胡蝶殿は構ってくれるけど、知盛殿が拗ねるからやめておくようにと、還内府殿に言われたのだ」
 唇を尖らせて仰ぎ見てくる少年に、は思わず困ったように苦笑を返してしまう。まったく、あの総領は誰に何を吹き込んでくれるのか。


 隣でやはり気配が笑ったことに気づいて視線を流しても、知盛は表情を一切変えていない。熊野水軍との交渉のため周囲の反対を押し切って単身、屋島を飛び出した総領は、帰還するや知盛の嫌味と皮肉の餌食になることだろう。どうやら互いにそういう関係を楽しんでいるらしいのだが、なるべく周囲には見せたくない姿でもある。
「本日の手習いは、もうおすみになられましたか?」
「うむ。終わったらばこちらに来てもいいとお祖母様がおっしゃったから、頑張ったのだ」
「帝は、こちらのお邸がお好きですか?」
「邸というより、知盛殿と胡蝶殿の傍が、好きだ」
 次々に人手が欠けていく中、政務から距離を置いている知盛の周囲は、慌しさだの緊張感だのから一番縁遠い場所だろう。それもあって時子のお墨付きでこうして少年が遊びに来ることを知っているから、もまた官位だのなんだのをある程度無視して少年に接することにしている。それがさらに気安さに拍車をかけていることは、わかっているのだが。
「二人の傍は、やさしい風が流れている気がする」
 子供は敏感だ。悲嘆を隠し切れない空気を感じ取り、それらに苛まれることに疲れ、そしてこうして逃げてくる。悲嘆を根底に押し隠しながらも、もはや引き返せない現実ゆえに残された時間をせめてはやさしく、穏やかに送ることに心を割いている邸へと。


 見るものが見れば不敬と声を荒げそうだが、知盛の邸に近づくものはほとんどいない。いたとしても、それは重衡や経正といった限られた面子であり、その彼らはが帝を膝に抱きこんでいようが、胸に抱きこんで簀子で横になっていようが、ほんのり笑うだけで咎めたりはしない。
 子供であることを許されない子供がそうして束の間、子供としての時間に安らいでいることを知っていればこそ、誰も咎めたりはしない。抱きこむ腕が月天将のそれであり、傍らに獰猛にして心優しい獣がまどろんでいる限り、子供に危害が加わることはないのだと、誰もが信じて任せてくれている。
 無心に背を預けてくれるお蔭で顎の下で揺れるやわらかな栗色の髪を梳いてやりながら、は哀愁を押し隠した吐息を宙に逃し、瞬きひとつで仮面を被る。
「では、知盛殿がお目覚めになられるまで、胡蝶は帝の御為にこそ侍りましょう。貝合わせでもなさいますか?」
「この前教えてもらった、しりとりというのがいい」
 今度こそ負けぬよう、花の名前をたくさん覚えてきたのだ、と。やる気に満ち満ちた声で挑戦を叩きつけられ、は仄かに笑って髪を梳いていた指を下ろし、子供の腹の前で組み合わせるようにしてしっかりと抱きなおす。
「では、帝からお願いします」
「うむ。あ、手加減はなしだからな!」
「承知いたしております。胡蝶も負けぬよう励みますゆえ、ご覚悟くださいませ」
 簀子を通りがかった女房がちらと笑い、そして踵を返すのを視界の隅に捉える。きっと、水なり何なりを用意してくれることだろう。叔父達の血を継いだのか、祖父の血か。勝負事には本当に真剣になる幼い帝の紡いだ言葉に応じて、もまた脳裏の辞書をめくっていく。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。