朔夜のうさぎは夢を見る

翳す刃

 法螺貝が西から響く。あれは撤退の合図だ。戸惑うように見上げてくる兵達に小さく頷いて「行きなさい」と命じ、は最後の手勢をも森へと逃して知盛と二騎、退路を守るようにして立ちふさがる。あの合図の後、出港を告げるのはか知盛の帰還。あるいは、二人が討たれたという知らせを携えた兵の帰還。ヒトならぬ力を保持する身なればこそ、雑兵よりもしんがりに相応しいと嘯いた知盛の発案だった。
 追いたいのに、追えない。追うには、立ちふさがる二人の名が重すぎる。そんな葛藤に焦れている源氏の兵を見渡し、は仮面の下で薄く微笑んだ。それこそが狙いだったのだ。
 黒白の愛馬達の脚は知っている。このまま振り切ることはたやすかろうが、だが、どうせならついでにもう少しはったりを効かせておこうかとは思い立つ。神子の降臨に沸き立ち、士気が高揚している源氏勢ははっきり言って厄介だと思っていたのだ。おまけに福原まで落とされたと今は、ここで釘を刺しなおす必要がある。
 ヒトならぬ力に脅え、ヒトならぬ力に歓喜するなら、今一度、ヒトならぬ力に怯えさせてやるのみ。兵を害し、戦の行く末を左右するためにこの力を使うつもりは毛頭ないが、使えるものはなんだって使わないとやっていられないのが平家の追い込まれた現状なのだ。


 手綱を手放して右腕を肩の横に真っ直ぐ伸ばし、指に、腕に、は纏いつく蒼い焔を思い描く。どうせ、怨霊兵のような“いかにも”な怨霊以外は人であるか否かの区別などついていないのだろうから、これを見て脅えればいい。平知盛が連れている月天将は、強大な怨霊なのだという噂のひとつでも立てば、儲けものである。
 広がるざわめきに笑みを深め、興味深そうに見やってくる深紫の視線の前で、はゆったりと腕を左に薙いだ。水平に薙がれたその射線上に焔が奔り、最前線に立つ神子と達との間に焔の壁が聳え立つ。訝しげに、挑むように、突き刺さるそれぞれの視線の中に明白な恐怖を察知し、は嗤う。この焔の意味を知るものがいるのなら、このまま退く方が効果的だろう。
「死にたければ追ってきなさい。その焔は、この先に進むことを許しません」
「……死にたくなくば、触れぬことだな」
 冷え冷えと告げたに、知盛が笑い混じりの声をかぶせる。の行使した力の気配に触発されたのか、その瞳の奥で獰猛な光がちらついている。あまりに昏く純然たる闇の色の滲む声にぞくりと肩を震わせ、そしては馬首を巡らせた知盛に続く。
 背後から響いた「待て!」という声と足音とを必死に引き止めた細い声の主がナニモノであるかなど、知ったことか。もはやこの身は理を冒す罪を負っている。今さら自分達を滅ぼす勢力に加護を齎す神を殺したところで、悔いが深まることなどないと、知っている。


 森の中で伏せて待っていた二十騎ほどの手勢と合流し、は無事に大和田泊から船にて屋島へと脱出した。還内府の指示通り、人数に対して過剰なほどの舟を用立てておいた甲斐があり、愛馬達も同道させることができた。恐るべき慧眼に素直に感服する一方、はひたひたと胸に迫る恐怖に身を縮める。
 彼の慧眼は、彼の持つ“知識”を基にしているのだ。それが当たって勝利を得るのならともかく、それによって打っておいた保険が役立つということは、つまり時流が平家の滅亡へと向かっている何よりの証左なのに。
 ろくな傷も負わなかったため、屋島についてからのは日が暮れて夜が深まるまで、ずっと兵達の手当てにあちこちを奔走していた。平家と命運を共にと、そう定めて付き従ってくれている薬師もいるが、彼らだけでは手が足りない。この世界に降り立ってすぐの頃に身につけた知識を基に、嫌でも戦場で磨かれた実戦経験によって、は戦後処理において非常に重宝される地位を確立している。
「月の都を、恋うているのか?」
「知盛殿」
 とりあえず、後はもう薬師達に任せても大丈夫だと判じられる頃になって、はようやく与えられた居室に引き上げた。とはいえそのまま寝付くこともできず、簀子縁でぼんやりと夜空を見上げていたところに、ゆらりと足音もなくやってきたのは狩衣を気楽に着崩した主。


 単衣に袿を纏っただけの姿ではあったが、咎められないことも確信できている。見苦しくないよう襟と裾とを整え、振り返って頭を下げようとするのを、白い指が頤を掬って阻む。
「同胞を見て、恋しくなったか」
「彼らは源氏です」
「だが、月よりのまろうどだ」
 やはり彼も気づいていたのかと、思ってからは己の馬鹿さ加減に小さく表情を歪めた。気づかぬ道理があるまい。にとっては予備知識ゆえに違和感よりも郷愁が先立つが、きっと知盛らにとってはひたすらの違和感ばかりが際立つ様相だったろう。同郷のものだと言われるより、異世界のものだと言われた方がすんなりと納得できるほどに。
 そのまま指が外され、知盛はの隣に腰を下ろす。
 酒すら嗜もうとしなくなったのは、いつからだったろう。ありとあらゆるものを削ぎ落として、彼はただ戦場だけを在るべき場所と定めている。血に濡れ、屍の只中に立ち、襲い来る源氏の脅威から一門をその背に守ることだけを、存在意義と定めている。ふとした瞬間に思い知る知盛の覚悟に、は気づくたび、触れるたび、ただひたすらに泣きたくなる。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。