朔夜のうさぎは夢を見る

透明な瞳

 そのまま疲労に耐えかねて再び眠りに落ちていたが次に目を覚ましたのは、今度こそ彼女を置いていくかどうかについて、範頼と景時が最後の判断に迷っている時だった。彦島は一時の逗留場所であり、確かに平定したとはいえ、西国はまだ源氏にとって気安い地域ではない。怪我人は寄港にちょうどいい熊野に置いて、できるだけ速やかに鎌倉に帰還することが、彼らに課された命題だったのである。
 源氏に与すると宣したくせに、熊野に入った達を出迎えたのは、先代の別当と名乗る壮年の男だった。いかにも海の男といった様相のその男は、からりと笑って怪我人の面倒を引き受け、実に腕のいい医者と薬師を幾人もあてがってくれた。
「じゃあ、俺達は先に行くけど」
「委細、承知しています。動けるようになり次第、すぐに追いつきますので」
「くれぐれも、無理はなしだよ? 壇ノ浦の一番の戦功を立てたんだからね。頼朝様も、格別の褒賞をっておっしゃっていたし」
「大丈夫ですよ。わたしに無理があると判じれば、白陰が動きませんもの」
 動けるほどには確実に生き延び、けれど馬での旅路には不安が残るという実に微妙な線引きの兵は、をはじめとした十数名。格としては彼らを纏める立場にあるだったが、同時にお目付け役として範頼配下の武将である北条義時一行を残されることで一兵卒としての地位を保ちながら、こうして景時らの出立を見送っている。


 海上戦ゆえにと、陸に預けておいた白陰は景時らの馬と共に熊野へと連れられてきていた。預けている間も気位の高さは相変わらずだったようで、かろうじて荷を乗せはするものの、誰の騎乗も一切許さなかったらしい。良い馬だと誰もが褒め称える分、その性情は誰もが知るところである。
 あながち冗談でもないの言葉にくすくすと笑い、景時はその愛馬たる磨墨の首筋を愛おしむように撫でてやる。主人が馬に思い入れを持つように、馬もまた主人に思い入れを持つ。そのことは、位など関係なく、軍場に出る兵ならば誰もが知っていることだ。
「必ず、“次”に間に合うよう戻りますので」
「……うん」
 遠く、北を睨んでが宣した言葉に、今度は沈んだ声が返される。範頼は西国に留まって平家の残党勢力の一掃と、改めて各地の豪族や水軍との交渉。そして景時は、鎌倉に戻り、目指すはさらにその先。大罪の謀反人として逃走を続ける九郎義経を匿うだろう平泉を飲み込み、頼朝による天下支配を脅かす最後の勢力を滅ぼすこと。
 昏倒してからのあらましは、範頼から聞いている。頼朝の乗る御座舟への、還内府の急襲。追いついた九郎一行に突きつけられた罪状と、それを受けて共に逃走したという源平の若き総大将二人。そこには景時の妹である朔も加わっているというのだから、気が気でないのは仕方あるまい。ただ、そういった惑いを許されない立場にあるだけなのであって。


 これから、年末に向けて寒さはますます厳しくなる。頼朝の、そして景時の読みどおり平泉に九郎らが到着するのは、恐らく冬の盛り。かの地は雪深い気候にあるから、形式にのっとって使者を送り、その上で戦を仕掛けるのは年が明けてからになるだろう。猶予は二月と少し。それだけあれば再び軍場を駆けられるようになると判じられるほどには、は合戦とそこで負う傷に慣れている。
「迷われませんよう」
 周囲から突き刺さる視線の数が増えてきた。いい加減にしないと、痺れを切らした兵達が近づいてくるだろう。その前にと、は声を落として口早に告げる。
「軍場の混乱のさなかであれば、奪回でさえ可能となりましょう。迷わず、なせることをなせばいいのです」
 それは、迷いながらもなせるべきことをなすしかなかっただからこそ紡ぐ言葉。突き放しながらも慰撫する言葉に、景時はきょとんと目を見開き、それからくしゃりと笑う。
「君は、強いね」
「強がっているだけですよ」
 強がるしかないから、強がるだけ。笑うしかないから、笑うだけ。ならば、戦うしかない時には、戦うだけだ。思うことが同じだから、二人の笑みには同じ切なさと同じ悲しみが宿る。
「道中、お気をつけて」
「ありがとう。ちゃんも、ちゃんと養生するようにね」
「ありがとうございます」
 見送り代わりに互いの身を案じる言葉を送りあい、そしては頭を下げて集団から離れた場所へと下がる。それが、出立の合図。
「出るよ!」
 呼びかけに、いくつもの声が応じる。

Fin.

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