朔夜のうさぎは夢を見る

透明な瞳

 夢を見ていた。夢を見ているのだと、そうはっきり自覚できる夢だ。
 温度も音も色も、何もない。ただ、無明の闇に漂う夢。
 見ていると、そうわかっているのに、瞼は持ちあがらない。
 ゆるゆると、くすぐるように、確かめるように、通り過ぎていく感触がある。頬を、髪を、そっと撫で擦る無骨な指先。冷え切った指の持ち主を知っている。だからこそ、目覚めが遠ければいいと祈り続ける。

――俺を、殺しにこい。

 綺麗な、底の見えない透明な深紫の瞳を、悲しげに伏せる人だった。しじまを乱さない、喧騒に掻き消されない、綺麗な声の持ち主だった。勁くて優しくて、それゆえに哀しい人だった。不器用で意地っ張りで、甘えられる時にはとことん甘える姿は、まるで大きな猫のようだった。

――お前との約束を枷に、俺は、一門を滅びへと導く。

 泣きたくなるほどに聡明な人だった。あまりにも視野が広く、あまりにも懐が深く、あまりにも先のわかりすぎる叡智の持ち主だった。心を傾けたそのすべてを捨てられない、不器用さを隠すことが過ぎるほどに器用な人だった。阿修羅のごとく戦い、菩薩のごとく慈悲深かった。

――お前と、共に……。

 諦念と失意と哀絶に濡れた声で、たったその一言で、この罪にまみれた命にかけがえのない重みを、最期まで与え続けてくれた人。生きてみたかった。生きたかった。死にたくなどなかった。死なせたくなど、ないのだと。
 言葉にされなかった思いを、あまりに切なくその瞳と声とに、滲ませていた人。


 涙が落ちる。目尻から、そのまま耳の方へと。目覚めてしまったことをしかと感じながら、瞼を持ち上げるよりも先に、遠い潮騒と何かに横たえられていることを自覚する。ああ、ここは船の上ではないのだと。そんなことを、考える。
「覚めたか?」
 瞼越しに光を感じる。肌には布の手触りと風の感触。耳朶を打つのは、待ちわびているそれとは、違う声。
「……範頼殿」
 薄く視界を開きながら呟けば、仄かに笑う気配があった。眩しすぎてもう一度目視界を閉ざし、ゆっくりゆっくり瞬きを繰り返す。徐々に、真っ白だった視界が、色彩を取り戻していく。
「派手にやってくれたな。お蔭で、平家の兵の半数近くが投降してきたぞ」
「大将は、斃しました。平家は嫡流が絶えたのです。それは、滅びでしょう?」
「捕虜ではなく、こちらから呼びかけての投降だ。忠を示す連中には、いくらそれが疑わしくとも寛容を示さなくちゃならん」
 お前、コレが狙いだったな。そう嘯く声は、詰る口調でありながらほろ苦く笑っていた。まったく、たいした奴だよ。お前も、新中納言も。


 ようやくはっきりと範頼の姿を捉えて、は小さく眉根を寄せた。体が動かない。右肩は布できつく縛られているが、それ以上に、全身に力が入らないのだ。
「とにかく、しばらくは休んでいろ。蹴りはついた。俺はこのまま残党狩りに残るが、お前は梶原殿と一緒に鎌倉行きだ」
「どれほど眠っていました?」
「まだ丸一日と経ってはいないぜ。このまま目を覚まさないようなら、留め置かざるをえなかったんだがな。目が覚めたんなら、熊野辺りまで戻る方が良い医者がいるだろ」
 見上げた先で、範頼はなんでもないように続ける。
「ここは彦島だ。熊野までは舟で進んで、その先は馬になる。馬が厳しいようなら、動けるようになるまで熊野で待機だ。後で梶原殿を呼んでやるから、細かいことはあっちに聞けよ」
「源氏は、勝ったのですね?」
「還内府に先帝、三種の神器。欲しかった物は全部逃したから、勝ったと言えるかはわからんがな。お前の言うとおり、平家の血は絶えた。そういう意味では、俺達の勝利だ」
 苦く、けれど確かにそれは感慨を篭めた声だった。終わりを見定め、終わりを体現した敵将への。慈悲でも同情でも憐憫でもなく、ただ純粋な畏敬の念。ならば自分は約束を果たせたのだろうと、もう一度瞼を閉ざして目尻から涙を落とし、は静かに祈る。だから、どうか今こそ安らかに。

Fin.

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