透明な瞳
うなだれるように肩口に落ちていた頭が蠢き、頬が触れ合う。溢れていた涙の熱は、冷たい頬に吸い取られて氷のごとき冷たさを得る。いっそ凍てついて氷の涙となってくれれば、枯れぬ悲涙を集め、これが自分の抱く痛嘆なのだと言って押し付けることもできように。
「送りましょう。それが、約束ですから」
喉に絡んだ声はやはり、掠れ、しゃがれて酷い有様だった。ずるりと、かけられる体重が増すごとに、握った柄の先で刃がいっそう深く喰いこんでいく感触を知る。
「……きっとまた、わたしはあなたを呼んでしまうけれど……その声は、呼び覚ます声ではなく。惜しみ、悼む声です。だから、」
「いくらだとて、呼べばいい」
なれど、振り返るなよ。お前は先へと進め。宥めるように、慈しむように、きっと信じがたい苦痛に曝されているだろうに、声がやわらかくほどける。その優しさに背を押されるように、は魂の底でまどろんでいる蒼焔を呼び起こす。
灼き尽くせよ蒼焔。神をも弑す純然たる殺戮の権化。氷よりもなお冷たいその熱で、灰の一片さえ許さないその意思で。
叩き込むのは刃を通じて。魂の最奥へと突きつけるように、涙と感傷と躊躇いと、そして溢れてやまない情愛を糧に燃え盛る焔を、寸分の狂いもなく、ただひたすらに知盛を殺すためだけに。
二人を包み込むようにして天へと駆け上る蒼焔に、どよめきが走る。聴覚が戻ってきたと、そんな他愛のないことをぼんやりと考えながら、は鎧の継ぎ目に沿わせて刃を横一文字に薙ぐ。薙ぎ払い、切り伏せ、そしてようやく知盛の顔を見る。
細められた双眸が、ただ穏やかに伏せられていた。哀しみを湛えた、儚い横顔。ゆるりと巡らされた深紫の視線が、蒼焔の向こうからを見つめて、微笑む。
「後を、頼む」
「はい」
「……至幸の終焉、だな」
流れる血はもうない。流れるよりも先に灼かれて消えていく。姿が霞み、声が薄れていく。背後にゆっくりと倒れる体が、末端から風と光に溶けていく。
「次こそは、共に――」
かそけき囁きも、最後まで紡がれずに溶ける。骸が舟底に伏す音はなかった。彼の存在の痕跡は、底板に残された夥しい血痕のみ。の肩に残された一太刀と、の手に握られた一太刀のみ。思いも寄らぬ終焉のカタチに、ざわめくことさえ憚られて声を呑む敵味方の兵達には叫ぶ。終末を告げ、勝利を宣す言葉を。
「新中納言、討ち取ったり……ッ!!」
風と波の音だけが行きかうありうべからずしじまの戦場に、ようやくあるべき喧騒が戻ってくる。うねるように、敵兵の悲嘆の声と味方の歓喜の声が風を生む。
骸の存在さえ許さない絶対的にして圧倒的な、あるいは非情な勝利者の表情と声音で、は喧騒の嵐を切り裂く。
「聞け、平家のつわものよ! 心あるものは我が前に膝を折れ!!」
慌てて背後から駆け寄ってきた望美達が、唐突なの言葉に唖然と目を見開く。だが、それに構っているゆとりはない。
「滅びの道行きにあってなお忠義を忘れぬその武勇を買い、鎌倉殿への忠を誓うならば、この暁天将が取り立てる!」
血を流しすぎたのか、過ぎた疲労のせいか、あるいはそれらをもあわせたもっと広い意味での疲弊か。霞む意識を奮い立たせ、は胸に喪われた声を繰り返す。彼はだって、大切なあの人達を、拾ってくれと。後を任せると。それもあって倖せなのだと。
「我が焔にて葬られるか、その武勇をもって共に軍場を駆けるか……選べ!!」
右手の感触はない。片手で支えるには重すぎる小太刀を、けれど揺るぎなく左手一本で蒼穹に翳し。はその腕の中に、適う限り多くの命を抱きしめたいのだと、願う。
視界の隅に、見知った顔がいくつも。中でもあまりにも意味深い相手と目が合い、寂しげな苦笑が手向けられる。そして、無駄のない美しい所作で膝が折られる。
ざわめきが広がる中、次々に平家を象徴する赤旗の元に、兵達が膝を折っていく。あるいは時に上がる思い水音は、膝を折ることをよしとせずに海底の、平家の夢の都へ往くことを選んだ者達の門出の音だろう。それぞれの心が定めた道を、はただ静かに、あるがままにと受け止める。そうして一心になってかき集め、胸の内にと招きよせた命をぐるりと見渡したところで、次いで意識が傾くのは達のいる御座舟に向かって必死に進む早船。
「御大将! 急ぎ、急ぎ御座舟にお戻りくださいッ!!」
まろぶように飛び移り、伝令の兵は真っ青になりながら叫ぶ。そう、そのとおり。忘れてはならない。ひとつの終焉は確かに訪れたけれども、それですべてではないのだと。
慌てて九郎をはじめとした神子一行が御座舟へと取って返すのを見送り、は投降した平家の将兵をまとめる役を持たない兵によって、ようやく傷の手当てを受けるに至った。
下手に引き抜いては血が溢れるからと、そのまま放置していた肩の小太刀を除き、乏しい道具で止血を施す。緊張が解けたのか、声は遠く、意識が揺らいでいく。
「暁天将殿!?」
呼ぶ声に応えるだけの余力など、もはや残されているはずもなかった。
Fin.